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そうして僕らは、どちらともなく歩き始めた。雨上がりのアスファルトは、うっすらと蒸気が上がっている。
早足で会場を目指していると、彼女がふと思い立った様に云う。
「あの、私…。やっぱり、このハンカチ洗ってお返しします。」
「あ、いや…それは」
「また会えますか?演奏会の後に。」
「──はい。貴女さえ、良かったら。」
「良かった。勝負服を着てきた甲斐がありました。」
「勝負服だったんですか?」
「はい。たった今から勝負服です。」
「良くお似合いですよ」と微笑えめば、彼女は、照れ臭そうに肩を竦める。それだけで、弾む気持ちが、どんどん前に動き出す。
あぁ…
そう言えば、僕はまだ恋を知らない。
コンサートマスターにも、再三指摘されていた。恋を知っているか否かで、音の艶が違って来るのだと──。
その意味が、今少しだけ解った気がした。
恋──
初めて抱いたこの感情に、もしも名前を付けるなら、そんな優しいものであって欲しい。
そして叶う事なら、隣を歩くこの人が、どうか同じ気持ちであります様に。
軒先から始まる、出逢いの物語。
それはまるで、通り雨の様に──。
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