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「何か描いてみてよ。今日の記念に。」
幸仁が言った。何の記念だろう。美月は勝手に可笑しくなって、「良いよ」と答えた。幸仁の前だと、何故か自分を全部さらけ出してしまいたくなる。幸仁を飲み込んで、腹の中の内側まで見てもらいたい。どちらかと言えば、普段それほど他人に心を開かない美月にとって、それは新鮮な欲求だった。
美月はキャンパスブックを1枚破って、イーゼルの上に載せた。幸仁を描こうと思った。
「動かないでいて。」
美月はそう言って、クッションの上に座る幸仁を見た。赤だ。焼き鳥屋の赤提灯、七味唐辛子の赤、アルコールで火照った幸仁の顔。美月は直感的に主題の色を決めた。
筆の先を湿らせて、パレットに出した絵の具をとる。居酒屋の壁も、テーブルも、全て同じ赤で描く。奥行きのない赤の平面に、幸仁も一体化している。テーブルには、鶏皮の白、サラダの緑、レモンの黄色が装飾的に並ぶ。平面的な店内の風景から唯一離れているのは、窓の外だった。夜の闇と向かいのパチンコ店のネオン。内と外、2つの世界が窓を通して重なり合っている。
美月は画を一息に描き上げた。完成した作品は、アンリ・マティスの『赤いハーモニー』を連想させる出来だった。こんなに筆が進んだのは久しぶりだ。実のところ、最近美月はスランプだった。自分の描くべき色がどうしても見つからないのだ。その風景をその色で描く必然性というか、そういう決定的な色みの直感みたいなものが鈍くなっていると感じていた。
美月が筆を置くと、幸仁は床に転がった。
「大丈夫?」
美月が慌てて駆け寄ると、「身体が固まっちゃったみたいだ。」と幸仁は倒れたまま言った。
顔の筋肉まで固まって、口が半開きな間抜けな顔だ。美月は思わず笑ってしまう。
「ごめん、つい夢中になって。もう動いても良かったんだけど。」
「そうだったんだ。」
幸仁は尚も半開きの口で苦笑いした。美月は幸仁を抱いて、起き上がらせる。
「本当に、大丈夫?」
「ああ、もう大丈夫。それより、画を見せてよ。」
「うん、どうぞ。」
幸仁はゆっくりイーゼルの方へ歩いた。
「さっきの焼き鳥屋だね。何か不思議な画だ。自分が何処にいるのか分からなくなるような、そんな感じ。」
幸仁はそう感想を言う。
「店の中は、何色?」
そして幸仁はパレットの上を見ながら聞いた。
「赤だよ。507ペリレーンマルーン。」
美月は絵の具のチューブを少し出して、幸仁に見せた。
幸仁は所謂色盲だ。生まれつき彼には全ての風景がモノクロに見えている。だから、赤は赤だと言っても、幸仁には通じない。赤は提灯の色で、唐辛子の色で、血の色。そう言っても、伝わらない。そもそも幸仁は提灯の色も、唐辛子の色も、血の色も知らないのだ。
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