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『招かれざるへべれけ野郎』を、家に上げるまでに途方もない苦労を要した。
痩せているとはいえ、脱力し切った大の男を抱えて玄関まで上げるだけで汗だくである。
「おい、顔! 顔、見せろ! 怪我してないか!」
入口で突っ伏す紅平の肩を揺すると、不明瞭な声とともに彼はのろのろと起き上がった。酔い潰れる寸前の迷惑な客を無遠慮にまたいで家に上がり、正面に回って腰を下ろした。
「お……」
呼びかけようとした丹羽の口は開いたままとなった。
長めの髪を振り乱したまま玄関に座りこんだ紅平の顔に、大きな変化が施されている。
「おま……そ、それ、どうした? なん……」
幸いにも怪我は見られず、額が少し赤味を帯びている程度だが、そんなものは気にもならない。
紅平の唇には、真っ赤な口紅がひかれていた。
「おまひない」
「は?」
くっきりと輪郭を際立たせた艶やかな唇で、彼は呂律の回らぬ口調で答えた。
「薫さんが、してくれた。こうすると、ちゃんと、伝えられるから、って。魔法の、口紅、おまひない、らって」
酔っ払いは、ふふ、と楽しげな笑い声を上げた。
ほんのりと上気した顔に、真っ赤な唇が際立つ。シャツの襟元がはだけて、垣間見える白い肌が艶めかしい。しどけない姿と、悪ふざけとしか言えない口紅が妙に相まり、直視するのがためらわれる淫靡さである。
通常ならば、丹羽は笑っただろう。
ばーか。大口を開けて笑い、ティッシュで、わざと力をこめて口を拭ってやったはずだ。
「――消毒、しとこう。額が擦り剝けて、少し血が出てる」
寝室として使っている奥の部屋へと逃げこんだ。鼓動が速まる。少しでも離れたかった。動揺して明かりも点けずに押し入れに腕を突っこむ。救急箱を探し出して手に取ると、ふ、と一息ついた。
「萌」
すぐ背後から聞こえた声に、ぎくりと身が強張る。
いつの間にか、紅平が部屋に上がりこんでいた。
声も出せずに座りこみ、後退る。背中を壁に押しつけて、四つ這いで近づく友人を瞠若するしかない。
薄闇に浮かぶ見慣れているはずの無表情に、言い知れない恐怖を覚えた。
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