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1-1 魔法学校の転校生
トロールって実は生臭い。この事実は意外と知られていないのかもしれない。
二足歩行をするシルエットは確かに人と似ているため亜人種などと呼ばれてはいるが、その皮膚は灰色でゾウのように分厚い。背丈は二メートルを優に超すが、知能はその図体に似合わず人間の三歳児程度と言われている。生理的欲求が強いが理性が未発達であるため、衝動を抑えることなく突発的に行動してしまう。故に人間に使役されることがほとんどである。
風が細いプラチナブロンドの髪を揺らすと、その度に頬をくすぐっていく。それがどうしても不快にしか思えない青年は、いらだたしそうに髪を掻き上げた。伏し目がちな瞼から覗く碧い瞳は憂鬱そうにくすんでいる。地面に落ちた眼鏡を拾い上げてかけると、視界が放射線状に区切られていた。新しい眼鏡を買わなければいけないだろう。
背後を振り返ると、数えるのも面倒になったトロールの死骸がうずたかく積み上げられている。よどんだ空気はまるでゴミ収集場にいるのではと錯覚させるほどだ。鼻からできる限り息を吸うまいとして、口で細くゆっくりと呼吸を繰り返す。
遠くの方で終業を告げる鐘が響かなければ、ここが学校の敷地内だということを忘れていたかもしれない。
「――やっちゃったなぁ」
トロールの小山から飛び降りてきた華奢な影が、困惑した様子で頭を掻きむしりながらあたりを見回した。首を振る度に、珍しい烏(からす)の濡れ羽色をした長髪が弧を描いて揺れる。
茜色の夕日が照らすそれは、もう二度と見たくもない、あまりにも美しい少女の後ろ姿。
「きっと退学だよね、私たち」
この時期に異国で咲くという紫陽花のような瞳をもつその少女は、遠慮がちに青年へと近づいていった。青年は大きくため息をつくと、忌ま忌ましそうに吐き捨てた。
「五度目のな! お前は何回同じことを繰り返せば学習するんだ?」
この言葉は正直自分にも言い聞かせるように呟いたものだ。いい加減学習して、この少女と一切関わらなければよかったのだと。この五年間、きっかけを作るのはいつもこの少女からだ。
腐れ縁、というものは本当にあるらしい。最初の学校を退学になってからというもの、全く示し合わせていないにもかかわらず、毎回同じ学校へ転校しているのだ。
「だ、だって! あいつの飼ってるトロールが女の子に乱暴を働くんだもん! それを黙って見過ごせっていうの!?」
少女はトロールの側で気を失っている上級生の男子生徒を指さした。別にこの生徒には何もしていない。あまりの光景に勝手に気を失っただけだった。
「だからって有力議員の息子が飼ってる愛玩魔法生物(ペツト)を討伐するか、普通」
「でもこのままじゃみんな夜も眠れないって泣いてたんだから!」
事の発端は、そこで泡を吹いて倒れている男子生徒が学校の裏山で勝手にトロールの群れを飼育し始めたことにあった。このトロールの群れは、ただそこにいるだけで全く管理されていなかった。そしてあろうことか夜な夜な校舎付近をうろついては、女子生徒へ性的暴力を働くという厄介者だった。
学校側に改善を訴えたのだが、多額の寄付金を納めている有力議員の息子ということで、見て見ぬふりをされた。挙げ句の果てには隠蔽工作まで率先して行う学校に、正義感の塊という表現がぴったりな少女の堪忍袋の緒が切れるのも時間の問題だとは薄々気づいていた。
そして一人でトロールの群れに飛びかかる少女を見捨てておけなかった青年は、結局巻き込まれてしまったのだった。
「ミカだって、許せないと思ったから手を貸してくれたんでしょう?」
「僕の名前はMikhail(ミハイル)だ」
「わ、私の語学の先生は”K”の発音を”カ”と教えたわ!」
少女、リーシャは動揺した様子でまくし立てた。五年前にこの国に来た少女は、出会った当初は言葉がおぼつかなかった。そしてミハイルの名前をミカイルと間違って呼んで以来、ずっとミカと呼び続けている。
「……これからどうするの?」
「僕はどんなことをしても在学中に三ツ星(トリプルスター)にならないといけない。次の学校を探すよ」
「わ、私だってせめて第一等級(シングル)の資格を取らないとお母さんに怒られるんだから!」
この国における魔術師は国家資格である。魔術学校を卒業すれば、どんな成績不良者でも最低等級である第一等級魔導士(シングルマギア)の資格が与えられる。
それとは別に在学中の評価として一ツ星、二ツ星、三ツ星の称号がある。一ツ星が第一等級と同程度というわけではなく、あくまでも学内の評価をわかりやすくするための制度だ。しかし三ツ星に至ってから卒業した者は、無試験で第三等級魔導士(トリプルマギア)から始められるという特典を有していた。
またもうひとつ、三ツ星には大きな特典がある。それは三ツ星で卒業した生徒にのみ、王室直属魔導士団への受験資格が与えられるというものだ。この試験を通ることが王室直属魔導士団への一番の近道であり、ミハイルの目指す道だった。
悔しそうに奥歯を噛みしめるミハイルの横顔をリーシャはちらっとみた。そして独りごちる。
「ミカは優しすぎるのよ。ほっといてくれて良かったのに」
「なんか言ったか?」
「なんにもー?」
リーシャだって毎回巻き込むことに罪悪感を感じていないわけではなかった。ミハイルが王室直属魔導師団への入隊を切望していることだって知っている。だからいつも一人で解決しようとするのだが、正直な話リーシャ一人では何もできないのだ。リーシャとミハイルは二人で一人の魔術師だった。
ミハイルがズボンについた泥を手で払い落としているとき、背後の林から巨大な拳が勢いよく振り下ろされた。
「ミカッ!」
リーシャの呼び声を聞くより早く、ミハイルは前方へと飛ぶと空中で身を翻して背後に向き直った。そこには三メートルはあろうかという、トロールの中でも大きな個体がのそりと立ち上がったところだった。ミハイルと目があった瞬間、トロールは歯をむき出しにして地響きのような咆哮を轟かせる。
「まだ林の中に隠れていたのか」
周囲に充満する血の匂い、そしてピリついた空気がトロールをいつも以上に凶暴化させているらしい。血走った目であたりを見回し、地団駄を踏み鳴らしている。
「ミカ。もう一回、アレお願い」
「……いつでもどうぞ」
ミハイルは大きくため息をつくと、リーシャの要望に応えるべく割れた眼鏡を外してシャツの胸ポケットへとしまった。
「ありがと!」
その様子を見たリーシャはニヤリと笑う。だがその時、あさっての方向からか細い声が聞こえた。
「や……めろ! お前たち、これ以上何をするつもりだ……!」
それは咆哮で目を覚ましたトロールの飼い主の声であった。目の前に広がる惨劇にこみ上げてくるものを感じながらも、ミハイルたちをキッと睨みつけている。その必死の形相に、リーシャは一瞬討伐をためらって足を止めた。青年はそれを見るやいなや、最後の生き残りであるトロールへと向き直り、四つん這いになってよたよたと近づいていく。
「なあ、俺だ。わかるだろ? 落ち着け――」
青年はトロールが自分に従順で、害のないことを示そうとしたのだろう。猫なで声で微笑みながら手を差し出すと、トロールはそれに答えるかのようにその手をゆっくりと握った。その様子にさらに笑みを強めた青年だったが、次の瞬間、その顔は絶望に歪んだ。
「え……?」
トロールが怒りのままに青年を頭上高くまで振り上げると、まるで子供がぬいぐるみを振り回すかのようにぶん回したのだ。
「うわあああああッ!」
青年は絶叫するが、愛しのトロールにその思いは届かなかった。ブンブンと上下に数回振ったかと思うと、勢いよく振り下ろして青年を地面へとたたきつけ――すんでのところでリーシャが地面と青年の間に滑り込んだ。
「――ッ」
青年を受け止めたリーシャは地面に背を強く打ちつけ苦悶の表情を浮かべる。だが衝撃を殺してもらったはずの青年はリーシャの数倍も痛がった。そして振り回された衝撃で自分の肩関節があらぬ方向へと曲がっているのを見て、一気に血の気が失せていく。
「ああああああ! 腕がぁぁぁ! ……なんで? 何でなんだよ! あんなに可愛がってやっただろうがッ!」
自身に懐いていると信じて疑わなかった青年は、この行動が信じられないとばかりにガタガタと震えている。そんな青年を一瞥すると、リーシャはゆっくりと地面へ降ろした。
「この人頼んだわよ」
リーシャはミハイルと、さらにその先に立っているトロールとを順に見つめた。そしてゆっくりと近づいていく。逆にミハイルは面倒くさそうにうつむいたまま、トロールへと背を向けて青年へと歩み寄った。
二人が交錯する瞬間、示し合わせたかのようにハイタッチをした。二人の手が乾いた音を打ち鳴らしたとき、重なった掌から閃光が迸り、空気がわずかに振動した。
その変化に、叫んでいた青年も思わず息をのんだ。何が起こったかはわからない。でも確実に何かは起こっていた。青年はリーシャの後ろ姿と、歩み寄ってくるミハイルを見つめた。そして息をのむ。うつむいていたミハイルが髪を掻き上げながら正面を向いたとき、その瞳が血のような深紅に染まっていたからだ。
「――なッ、瞳の色が変わっただと!?」
その異様な容貌に、青年は肩の痛みも忘れて戦いた。何かの魔術だろうか。それにしては詠唱もなかった。もっと根本的な何かによって、その姿が変わったとしか思えない。
「〈贄は我が血潮――」
気づけばミハイルは青年のすぐ目の前まで来ていた。そして詠唱を唱えながら手で大地へと触れる。低くゆったりと唱えられたミハイルの声を聞くやいなや、リーシャはトロールへと駆け出した。
「なぜお前が詠唱を唱えている? お前たちは無能のはずでは――」
青年は全く状況が飲み込めないのか、一人唇を戦慄かせている。ミハイルはそんな青年を一瞥しただけで、気にもとめなかった。
「〈――堅忍不抜(けんにんふばつ)の刃(やいば)を我に〉!」
詠唱を終えると大地から刀の柄がゆっくりと顔を覗かせる。ミハイルはその柄を勢いよく引き抜くと、その勢いのままに後方へと放り投げた。
それはミハイルの瞳同様、赤黒く輝く片刃刀(かたばとう)であった。夕刻の赤い日をその刀身に受け、妖艶な光を反射しながらくるくると飛んでゆく。
先に走り出していたリーシャへ刀が追いつくと、垂直に飛び上がってそれを手に取った。そしてその勢いのままに、トロールの脳天めがけて斬撃を投じた。
「グアッ――!」
一刀両断。まさにその言葉がぴったりであった。魔力を込められた刀身はより鋭利となり、普段の数倍の力を引き出してゆく。分厚い皮膚、鋼鉄のような筋骨をもろともせず、その刃は体の中心を切り裂いた。
地面へと着地したリーシャの切っ先は大地を大きく穿った。そして数刻遅れて、真っ二つになったトロールが倒れて大地を大きく揺るがす。立ち上がったリーシャは刀を横になぎ払うと、その風圧で刀身についた血を払った。
「〈癒やしの光、安らぎの息吹〉」
ミハイルは片刃刀を放り投げた後、すぐさま青年に歩み寄って外れた肩へと治癒魔術をかけていた。青年の傷が癒えるほど、ミハイルの瞳は徐々に深い碧へと戻っていく。完全にミハイルの瞳の色が戻ったとき、青年の肩も元通りに戻った。ミハイルが治癒状況を確かめようとその肩へ手を伸ばしたが、青年は勢いよく払いのけた。
「――化け物めッ!」
震える唇でなんとか言葉を絞り出した青年を見て、一瞬ミハイルは悲しそうな表情を向けた。しかしすぐさまいつもの仏頂面へと戻ると、立ち上がって青年へと背を向ける。そしてそのまま校門の方へと歩きだした。
「え、ちょっと! 待ってよ、ミカ!」
もう生き残りがいないか林の中を調べていたリーシャは、立ち去ろうとするミハイルの背中を見て慌てて追いかけた。その手にはすでにあの片刃刀はなかった。
「――次の学校は絶対に別のところにいけよな」
追いついたリーシャに、ミハイルは目も合わさずに呟いた。その言葉にリーシャもむっとしてそっぽを向く。
「それはこっちの台詞よ!」
こうして二人は、五度目の学校を後にした。後にはトロールの死骸と、死んだ瞳をした青年だけが取り残された。
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