悟れないもの。

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悟れないもの。

 私が洗濯物を取り込んでいると、下が騒がしくなった。バタバタ。ガチャリ。ドスン。 「ただいまー」  放り込んだ洗濯物をそのままに階段の上から 「おかえり」 と大声で言うと、 「お母さん、何かないー」 とすかさず返ってきた。ガサゴソ、バタンと物音が聞こえてきた。  もうっ、帰ってくるなり食べるものを探すんだから。  子供部屋の壁にかかった時計を見ると三時近く。確かにおやつの時間ではある。しかし、私は唇を尖らせた。 「帰ってきたらまず手を洗いなさいって、いつも言ってるでしょ。それに、おやつは宿題をやってから……」  階段を下り、声高に小言を言いながらリビングに入ると、息子の涼太が爪先立ちをしながら冷蔵庫を覗いていた。 「ちょっと、電気がもったいないから閉めてよ」 と言いながらテーブルの方を見た私は、その場で固まってしまった。  どこぞの王子様かしらん、というくらい品のある男の子がテーブルに座っていたからだ。剥きたてののゆで卵みたいなつやつやつるんとしたほっぺた。絶妙な大きさの瞳は奥二重で、引き結ばれた唇の描く直線が男の子だなあって感じだ。 「こんにちは、お邪魔してます」  落ち着いた佇まいでぺこりと下げられた艶々とした可愛らしい頭を見ながら、 「あ、はあ……」 と私は生返事を返した。カニさながら横歩きで移動し、冷蔵庫の前で飛び跳ねている涼太をひっ捕まえた。動きを封じて小声で呼びかける。 「ねえ、ねえ……ちょっと」 「なんだよー」 頬をほおづきのごとくぷっくりと膨らませて見上げてきた涼太を私は軽く睨んだ。 「ね。あれ、誰」 「誰って、同じクラスの奏多(かなた)くん」  涼太がぐるりと黒目を動かしてから、上目遣いに私を見た。これはおねだりする時の涼太の癖だ。 「お友達くるなんて聞いてないけど」 「急にそうなったんだもん」 「学校帰りに友達の家に寄るのは禁止されているでしょう」  私は二階で取り込んだまま床に散らばっている洗濯物を思い浮かべながら口調を強めた。ところがその質問は涼太の想定内で、 「奏多くん家に寄って、ランドセルを下ろしてから来たよ」 と、あっさりと返されてしまった。ううむ。おチビのくせに先を読んできたな。 「宿題はどうするのよ」  ならばと、咎める口調で言った私。ふと背後に気配を感じ振り返れば、奏多くんが立っていた。うちの涼太より頭一つ高い。手足がすらりと伸び、見た目だけで足が早いだろうなあと想像がつく。十年後は超絶イケメンになっているだろう。いや、三年生か四年生ごろには、普通にバレンタインでチョコをもらってるタイプだ。 「あの、初めまして。僕、涼太くんの友達で一宮奏多と言います。いつも涼太くんにお世話になってます。宿題持ってきたからいっしょにやろう、涼太くん」  スルスルと奏多くんの口から流れ出る言葉に思わずあんぐりと口を開けてしまった。  すごい。この子賢い。  うちの涼太がこんな賢い子のお世話をしているはずなんてない。思ってもないことを、まるでところてんを押し出すみたいにつるんっと言ってのけるなんて、うちの涼太にはとても真似ができない芸当だ。涼太の場合、脳みそと口は一本の大きな道路で繋がってるもの。思ってること、口からダダ漏れでほんと困る。本当に涼太と同じ小学一年生なのだろうか。 「あ、そっか。宿題やろー」  奏多くんの言葉に軽い口調で涼太が答えた。  ええー! 呆然とした私の脇を涼太がすり抜けながら、 「ジュース入れてよっ」 と言った。私、あんぐりとしたまま、仲良くテーブルに宿題を広げる二人を見つめた。  涼太が自分から宿題をやるという日が来るなんて!  宿題はカタカナのプリントだった。 「……涼太くん、『ン』は下から上にはらって、『ソ』は上から下にはらうんだよ……」 「へえ、そうなんだー」  少し早いけれど、キッチンで夕食の下準備を始めていた私は、思わずずっこけそうになった。  それ、昨日の夜アンタに教えたでしょうがっ……と心の中で突っ込んでしまう。ひらがなは最初にやったのに、カタカナはいつになってからやるのかしらとジリジリしていた。 というのも、昔教師をしていた母から 「漢字を覚えるにはまずカタカナから覚えないと」 と小学生時代厳しく言われていたためである。私はあまり覚えの良い方ではなく、今の涼太のようにンとソ、シとツを間違えてよく叱られた。二歳下の妹が一年になった時、何の苦もなくスラスラとカタカナを覚えると、 「下の子は要領が良いって言うけど、房江(ふさえ)も|円《まどか 》くらい要領が良ければねえ」 とため息交じりに言われた。今だに私はそれを根に持っているところがある。丸顔で目の小さな私に比べて、妹は小顔で目鼻立ちが整っている。そして何事にもよく気がつく。だから、結婚したのも妹が先だった。捕まえた旦那も妹の方が上等で、東京の一流商社勤め。私の旦那はといえば、一地方都市の工作機械メーカーの営業。会社名を言っても、地元でしか通用しない。妹の方は年に一回は海外旅行へ行くみたいだけど、ウチは旦那が出不精なせいもあって、年に一度県境を越えたら良い方だ。  いかん。愚痴ばかりになってしまった。 まあ、とにかくそう言うわけで。私は秋口になってようやく始まったカタカナを何とか涼太のモノにしようと躍起になっていた。昨日も夕飯前、何度説明しても『ン』と『ソ』を取り違えて書く我が子に、ブチっと切れそうになって。そしたら旦那が仕事から帰ってきたのだった。旦那はすぐさま不穏な空気を察知し、お腹すいたなーと話を変え、どうだ持久走の練習は? と涙目になっている涼太の肩を抱いた。途端に涼太の顔が明るくなり……春に行われた運動会の徒競走ではパッとしなかったけれど、持久走はそこそこ早いらしい(あくまでも本人による自己申告だけど)……なんとか平穏に夕食を囲めたんだった。  涼太が眠ってから私が旦那に愚痴ると 「良いじゃないか、カタカナくらい」 などとのんきなことを言う。 「何言ってるの。カタカナは漢字を習うために必要でしょ。それに、大人になって書類を書く時、必ずカタカナでふりがな振るじゃない」 「涼太の名前に『ン』も『ソ』も入ってないだろ。そのうちなんとかなるさ」  そういって旦那はさっさと話を切り上げてしまった。もう聞く耳持たないからな、と旦那の幅広の背中が言っていた。  その背中を恨みがましく見てしまう私の胸の中で、焦りのようなものが熾火(おきび)となって熱を発している。  私と旦那が結婚したのはお互い三十過ぎてからだ。高齢出産って何歳から言うのか知らないけど、涼太を授かった時に、もう兄弟を作ってやるのは無理だなって思った。そう、涼太は一人っ子なのだ。だから、子育てに失敗なんてできないのに。  昨夜の回想を断ち切ってリビングに視線をやれば、二人はおでこをひっつけて笑っていた。そのコントラストに私、なんとも言えない悲しい気持ちになった。  奏多くんは私の子育ての理想形だ。賢くて礼儀正しくて、しかも見た目は王子様で。どこにも過不足がない。うちの涼太はと言えば、愛嬌のある顔つきである……のだけど目と目の感覚が離れていて、またその目がちんまりとしている。胴が長くて足が短い。親に似て完全な日本人体型だ。そしていつもどこかとぼけている。この間なんて朝起きてきたかと思ったら、 「かーちゃん、首が苦しいよう」 と言うので何事かと確認してみれば、パジャマの上衣を前後ろ逆にして着ていたのであった。(涼太はボタンのついた衣服は着たがらない。着るのは被ればすぐに着られるTシャツタイプのものばかりである。ボタンを留めている時間が勿体無いからと言うのだが、せっかちだからではない。単に面倒くさがりなのだ)背中側は当然前身ごろより襟ぐりがしまっているので首が苦しいのは当たり前だ。我が子ながら、これには朝から脱力させられた。 つまり、親の欲目でどんなにかさ上げしても、奏多くんには敵わない。 私、産院で他の赤ちゃんたちと並んで寝ていた頃の涼太を思い浮かべた。皆、腕はローマ字のW、足はMの形にして寝ていてお腹が空けば泣き、おしっこをしては泣いていた。奏多くんだって、生まれたばかりの頃はうちの涼太と大差なかったはずだ。品行方正な赤ちゃんなんて聞いたことがないもの。 一体どこから差がついてしまったのだろう。  宿題を終えた二人はアニメやゲームの話で盛り上がっていたようだった。しっかり者の奏多くんはだらだらと居続けることなく、五時前に帰っていった。 「ふうん、そんなにしっかりした子が涼太の友達なのか」  私の話を聞いて感心しながら肉じゃがを口に放り込んだ旦那を軽く睨んだ時、電話がなった。  涼太が小学校に上がった途端に塾や家庭教師の勧誘の電話がかかってくるようになった。多分それだろうとぶっきらぼうに出た受話器の先で 『こんばんは。私、一宮奏多の母です。今日は奏多が遊んでいただいてありがとうございました……』 とおしとやかな口上が聞こえてきて、私は受話器片手に年甲斐もなくどぎまぎしてしまった。奏多くんのお母さんは、声音だけで私とは生まれが違う、育ちが違うと私に実感させた。通話を終えて、ため息を喉奥に押し込んだ私に、涼太が誰からー? と間延びした声で聞いてくる。 「奏多くんのお母さん。奏多くんがすごく喜んでたって。また遊んでねって言ってたよ」  奏多くんと涼太との差は、はなっからついていたのだ。敗北感がじんわりと私の体の内へ広がって、こちらは胸苦しさを覚えているのに、 「俺も楽しかったー」 「それにしてもよくできたお母さんだな。わざわざお礼の電話をかけてくるなんてさ」 などと、うちの男どもは無邪気なことこの上ない。  カチン、ときた。 「どうせ私はできた母親じゃないわよ」  旦那に向かって言ったのに、その言葉はグサリと私の胸を刺し、えぐった。 「なんだよ。何、むくれてんだよ」  旦那が熊のような体を丸めて縮こまりながらご飯をかっ込んで、上目遣いで私を見た。食事に専念しているフリで視線をそらすと、旦那はさっさと食事を済ませてテレビの前に陣取り寝転がった。どうしたんだ、とか気にすることじゃないとか、何かしらの慰めを言って欲しかったけれど、それがないことも私には不満だった。(もちろんそんな慰めが何の役にも立たないとはわかっているけど) 私の不機嫌を察知したのだろう。涼太は(普段はしないのに)、食べ終わった食器を流しまで運ぶと、あっという間に二階へ駆け上がっていく。  キッチンで洗い物をしながら、私はしまいこんでいた重いため息を一人吐いた。    今日もまた、洗濯物を取り込んでいると、玄関が騒がしくなった。涼太が帰ってきたのだ。階段を駆け上がってくるかと思っていたら 「今日は奏多くん家へ行ってくるねー」 と言う声とともに玄関のドアの閉まる音がした。私は、 「まったく、慌ただしいんだから……」 と文句を垂れながら、上がり框に転がっていた横断バッグから、給食セットを取り出して洗った。  二人の友情は日々育まれているようで、食事の際にも、涼太の口から奏多くんがねー、としばしば飛び出してくるようになっていた。その内容は、大抵奏多くんがどんなに優れている子なのかと言う内容で、お間抜けな失敗談などであるはずがないのだった。しかも、涼太はご飯を頬張りながら、まるで我が事のように頬を緩めて奏多くん自慢をする。その度に私は四十も過ぎてもう柔らかくもないはずの自分の心がガタピシと痛む。あんたは、あんたはどうなのよ、と、問いただす言葉をいくつも飲み込んで、近頃の私は胸焼け気味だ。  そうか、今日は奏多くんが家へくるのではないのだな。ホッとする反面、帰ってきた涼太から奏多くんの家はこうだったよ、とか奏多くんのお母さんの素晴らしさを聞かされそうで、それも嫌だな、と思う。そして、私もお礼の電話をしなければならないだろうかと考えると、(大人気ないけれど)億劫に感じて仕方ないのだった。  きょうび、働いているお母さんも多いので、持久走の見学は本番の日以外に、練習の日も見学できることになっていた。  持久走は男女別で走るので女の子たちはコースの内側で応援するようだ。赤い帽子をかぶった男の子達が白く引かれた白線を前に整列して、走る準備を始めていた。帽子のつばの下に覗く顔を遠目に確認する。涼太たち一年生は五クラスある。一クラス三十人ほどとしても百五十人。皆同じ格好なのでその中から我が子を探すのは一苦労だった。  (あ、いた)  小さく手を振ると、涼太がぴょんぴょんと飛び上がってお母さーんと言った。すかさず担任の先生に注意される。見学しているお母さんたちが笑いさざめいた。  同じ幼稚園のお母さんたちもいたが、正直群れるのは苦手だ。私は仕方ないわねえ、と言わんばかりに苦笑いを浮かべながらスタート地点近くに集まっているお母さんたちから離れてコースを見渡せる花壇の前に立った。  乾いた音が響き、子供達が走り始めた。グラウンドを五周。最初は快調だった子も、一周、二周と走って行くうちに顎が上がり、膝がもたついてくる。涼太はとみれば、自己申告は嘘ではなかったらしい。肩を大きく動かし、体をねじるように足を踏み出すフォームは決して美しくはないが、気がつけば一番先頭を走っていた。  私にしてみれば、予想外である。真ん中より上なら褒めてやるか、くらいに考えて腕組みしながらのんびり見物するつもりだったのに、思わずコース近くによって大声で応援していた。  涼太の半歩後ろに他の子が追いついているのだ。逃げろ、頑張れと人目を憚らす声が出た。先生がラストっと声をかける。涼太が赤帽を勢いよく後ろへ跳ね飛ばした。帽子は顎にかけたゴムでぶら下がり涼太が走るたびに、小さな肩と後頭部の間をいったりきたりした。私の前を子供達がグラウンドの砂を跳ね上げながら通り過ぎていく。  あと半周。  涼太が眉を顰めて大きく口を開ける。  走り込んできた涼太の肩をゴール地点に立った先生が叩く。途端に涼太の腕がブランコのように前後に揺れ、体をそらせながらスピードを落とした。三拍子のリズムで帆を緩め、肩で呼吸しながらペタペタと歩き始めた。コースの内側でこうしてペースダウンして、順位に並んで座って行くのだ。  何だろう。年甲斐もなくドキドキしてしまった。所詮一年の、おチビたちのマラソン大会だと侮っていたけれど、見応えがあった。  何より、涼太が学年で一位になれたことが私の気持ちを風船のように膨らませていた。  自分の子供の走りは終わったのだから、帰ろうかな。次に走る女の子たちが動き始めていた。私は、ゴールして体育座りをしている子供達の顔を横目に、校門の方へ歩いて行こうとした。何かが、心に引っかかった。 (あれ……?)  何が気になるのだろうと、自分の心を見渡そうとした時、後ろを歩くお母さんたちの会話が耳に入ってきた。 「……それにしても、見れなくて残念—」 「ねえ。王子様みたいにキラキラの子がいるよって、うちの子が言うから見るのを楽しみにしてたのに」  奏多くんのことだ、とすぐにわかった。  同時にそうか、と思う。私が気になっていたのは奏多くんが持久走の場にいなかったからだ。涼太の一等で目が眩んでいたけれど、奏多くんが走っていたら? どうなっていた?  その日の夕食で、 「涼太、頑張ったね。持久走、一等だったじゃん」 テーブル越しに頭を撫でると、涼太が目を三日月の形にし、舌べらを上唇にくっつけて笑った。少々不気味な顔に見えるが、これが涼太の最高潮の喜びの表現である。微笑ましい気分になり、もう、奏多くんが涼太と比べてどうとか、考えても仕方のないことは忘れよう、と心の中で呟いた。 「でもさ、奏多くんが走ってたら一等になれなかったかな」  涼太は本当に何気なくそういっただけなのだが、私は治りかけていたかさぶたを剥がされたような心持ちに顔をしかめた。 「どうしたの、かーちゃん」  心配顔になって私を覗き込む涼太の横で、旦那が、 「虫歯か? まー、食べれなきゃお前の腹の浮き輪もしぼむかも」 とデリカシーのないことを呟いたので、テーブルの下で足を蹴ってやった。ちなみに腹の浮き輪とは、私のお腹周りに頑固に居座っている脂肪のことだ。 「奏多くん、どうしたの。お休み?」 「熱なんだってー」  持久走の本番は一週間後。ただの風邪なら、奏多くんは本番走るだろう。私の中で膨らんでいた風船が見る間に小さくなってゆく。  その日、嫌な夢をみた。  持久走のコースに、なぜか大きなカタカナの『ン』と『ソ』が、障害物よろしく置かれていて、子供達がわらわらとそれによじ登り、飛び越えては走っていた。もちろん先頭は奏多くんだ。重力などないように軽々と飛び越えて走ってゆく背中は見る間に小さくなっていく。 「涼太、早く、早くっ」 と必死で私は声をかけるのだが、涼太は『ン』に足を引っ掛けてはずり落ちるばかり。私は地団駄を踏みながら、わあわあ喚いて……。  あっという間に一週間が過ぎ。持久走当日。  結果から言ってしまうと、涼太は八位だった。  もちろん一位は文句なしに奏多くん。息も切らせずゴールしたその姿に、小さいのにカッコいいわねえ、とお母様方がざわついていた。  私はガッカリを通り越して悟りの境地に達した気分だった。  一位か二位かを競ったならともかく、奏多くんの背中に届きもしなかったのだから。  あのときの一等は何だったのだろうか。  本番ってやつは人を本気にさせるらしい。じゃあ、うちの子の本気は? いやいや、これが現実というものなのだ。心を無にして受け入れるのが大人ってモンよ……。    練習の見学の時にも立っていた花壇の前で呆けたようになっていた私は、 「……かーちゃん。かーちゃんってば」 と声をかけられて、我にかえった。  涼太と、奏多くん。そして……。 「こんにちは、初めまして。奏多の母です」  カジュアルなパンプスに、同色のパンツ(決してズボンではない)シフォンのブラウスの上にジャケット。そして当たり前だけど、美人だった。お腹の肉を気にして、シマムラで一五〇〇円也(税別)の、ダボついたチュニックを着てきた私は、恥ずかしくて逃げ出したくなった。でも、奏多くんのお母さんが私の手をガシッと握ってきたので、身動きできなくなってしまった。 「小学校入学と同時にこちらに越してきたので、なかなかお友達ができなかったんです。学校へ行くのも渋ってしまって。困っていた時に、涼太くんが声をかけてくれまして……。それからは喜んで登校するようになったんですよ。本当にありがとうございます……」  じんわりと涙をためたアーモンド型の瞳に見つめられて、私ってば、どぎまぎしてしまった。  女同士でも、この威力。このお母さんの血を引く奏多くんだもの。十年後はアイドルになっていてもおかしくないとさえ思う。張り合うようなことを考えていた私ったら、ホント大馬鹿者だったわ……。 「奏多くん、すごいですね。一位なんて」  とっさに笑みを顔に貼り付け、そう言った私に、奏多くんのお母さんは胸の前で手を左右に振って見せた。 「いえいえ。涼太くんこそ、練習では一位って聞きましたよ」 一週間前の私なら、そう言われて有頂天になれた。今だって、できればいい気分で受け答えしたい。でも、私は悟ったのだ。我が子に夢をみてはいけない。私は、そろそろと息を吐いた。 「そういえば見学の日、奏多くんお休みでしたね。熱だったとか……もう大丈夫ですか」  奏多くんのお母さんは眉を下げた。 「……お恥ずかしいんですが、夜になると時々泣くんです。いえ、涼太くんのおかげで学校へ行っていますけど、ね。それでも不安がこみ上げる時があるみたいで……あの日は朝起きてからも泣けてしまって。仕方なく休ませたんです……」  おやおや。  思わず、鼻から大きく息を吸い込んでしまう。  赤帽さんたちが教室へ戻っていく背中を見ながら、やっぱり我が子が一番輝いていると思った。  悟れないモノなのだ。
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