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月曜日、放課後、どしゃ降り。 重い足取りで旧校舎の音楽室へ向かう。 よくよく考えたが、あの先輩が素直に私のギターを返してくれるだろうか。 「はぁ…」 新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下をため息を吐きながらとぼとぼと歩く。半分くらい来たところで、優しい音が微かに響いた。 あ、私のギターだ。あの人が弾いている。雨音にかき消されてしまいそうなほどか細い音色。 その音を私はひと粒ひと粒拾っていくように、音楽室の前まできて、静かにドアを開けた。 「待ってた」 中にいた夏目先輩は、来るのが分かっていたと言うように、姿を現した私に驚きもせず、静かにギターを弾く手を止めた。最後に指全体で弦を撫でて「キュッ」と音を鳴らす。無意識なのか、いつもギターを弾き終わる時にするそれは、先輩の癖だった。 「ギター返してもらいに来ただけです」 「君が、やるって言うなら返すよ」 「だから…」 雨が窓を引っ掻く。 酷く煩わしくて、心がざらつく。 「私、やらないって言いましたよね」 「うん、でも君はやるよ」 「だから…っ」 「君はやるよ。だって、君はきっと音を出さずにはいられないだろうから」 ザーザーー ザーーザーー…。 煩かった。雨の音か、私の頭の中のノイズか。 砂嵐のように鳴り響くのはたぶん警告音だ。心が暴れだす。こないだ聴いたドラムの様に激しく、私の中の鳴らせるもの全部を叩いたような騒がしさだった。その音ぜんぶ、目の前の彼に投げつけてやりたかった。 「勝手に決めつけて掻き乱して私の中に入ってくるの止めてください!」 でもそんなこと出来やしないから、叫ぶしかなかった。それでも夏目先輩は顔色ひとつ変えない。ただ真っ直ぐ、私を見つめていた。何でも見透かしてしまいそうな、あの眼で。それが無性に苛ついた。 「私はやらない。よかったのに…。ここで、このギターで、ただ音を鳴らせればそれだけでよかった…。それがどんな音でも聴くに耐えないほど酷い音でも何だって」 「嘘だね」 「これ…何で…」 夏目先輩の手には、いつかの楽譜。 自分の中で溢れてどうしようもなくて、でもどうにかしたくて、殴り書きのように書いたあの楽譜。音の吐き出し方さえ知らなくて、ただただ感情任せに書き綴ったあの音たちは、私の心のままで、生々しくて、嫌気がさした。 だから忘れ去ってやろうと思った。忘れ去って、忘れたことすら忘れてやろう。そう思ったのに、どうしても捨てられなかった。 ああ、思い出した。 さっき夏目先輩が弾いてた曲。あの曲じゃんか。なんで、気付かなかったんだろう。 それは多分、音に起こした自分の曲を聴いたのが初めてだったからだ。頭の中でしか鳴らなかった音が、今、私の鼓膜を初めて震わせた。 知らなかった。こんなに綺麗な音だったなんて。これ全部、私の心の全てなんて。 「狡いよ…」 音にすらならない言葉だった。 掠れたようにやっと喉を震わせたその言葉は、諦めを意味していた。 この人、なんで私が捨ててったもの全部拾ってくるのだろう。狡くて、酷いのに、きっと逃れられない。 だってもう、音は鳴ってしまった────。 「…先輩はもう気付いてると思うんですけど」 「うん」 「私、自分の感情を上手く伝えられるほど器用じゃないんです」 「そうだね」 「ごちゃごちゃで、面倒臭い。それなのに、吐き出せなくて苦しい。私には、先輩みたいに綺麗な音は鳴らせない」 「それでも、このギターを弾きたいんでしょ」 「……っ…」 そうだ。多分きっと、結局そこに行き着く。 そのギターを弾きたかった。音を鳴らしたかった。ただ、それだけだった。 「なら、鳴らせばいい。君の頭ん中で鳴ってる音全部、吐き出せばいい。俺が、その方法を教えてあげるから」 そう言って、夏目先輩はギターを私に差し出した。優しく、宥めるような声。 静かにそれを受け取る。よく知った重みが私の腕の中に戻ってきた。 ギターを抱えて、夏目先輩を見た。真っ直ぐに、逸らさずに。 先輩も私を見ていた。口角をきゅっと上げて、あの得意そうな笑みを浮かべて笑っていた。「ほら見ろ」と笑うその顔は、やっぱり少しだけ幼かった。その表情を見たらなんか、ふっと力が抜けた。 仕方ない、乗ってやるか。 どうせ、行く場所なんてないんだから。それならこの果てのない惑星探査機に私の音を乗せるのも悪くない。 いつの間にか雨が上がっていて、雲の隙間から漏れる光が濡れた窓をキラキラと照らしていた。 旅が始まる。 目的地は、まだない。 息が切れる、最果てまでの旅だ。
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