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“土星はね、水にぷかぷか浮くんだよ。”
それを知ったのは小学生の頃だった。
町の図書館の最上階にある小さなプラネタリウムで、館長のおじいさんに教えてもらった。
「でもね、土星は地球の約95倍…とてもとても大きいんだ。だからね、本当に水にぷかぷか浮くかなんて誰にも分からないんだよ。本当のところはね、結局何も分からないんだよ」
本当に小さなプラネタリウムで、地元の人以外あまり訪れる人はいなかった。小学生は50円で観ることが出来て、私は土日になるといつも50円を握りしめて観に行った。季節ごとに投影する空が変わるから、暑い日も、寒い日も、飽きもせずに私は星空を見上げた。
見上げれば無数の星屑たち。
真っ暗の中、ただただ星だけが光り輝いていて、それをただじっと見つめていた。
「でもね、分からなくてもいいことだってあるんだよ。知ってしまうことはとても簡単で、種明かしは単純なんだけどね。そうだね…例えば、土星が水に浮くこと、宇宙の向こう側、空が青いこと、大切な人が何で大切なのか。全部考えたってキリがない。でも、分からないからこそ、僕たちは夢を見る。夢を見て、追いかけて、それを宝物のように胸に抱いて眠る。そうすればきっと君だけの中に、君だけの小さな宇宙が無限に広がるんだ。それはとても素敵な事だと思わないかい?」
知らないからこそ夢を見れる。
これから先、知らなきゃいけないことが嫌でも増えていく。それでも、君の心に広がる宇宙は君だけのものだ。それをね、ずっと大事にしてほしい。これからどんなことが待ち受けていても、きっとそれが、君を明るい星のもとに連れていってくれるはずだから。
そう言って、おじいさんは白髪混じりの眉毛をうんと下げて優しく笑った。
その日は、たった一人の観覧者の為の上映だった。私だけに、私のための宇宙を映し出してくれたおじいさん。
「また、あした来るね」
大好きな場所。大好きな人。宝物のような居場所。暗闇に一人で佇むおじいさんに向かって、小さな手のひらを一生懸命に振った。
「ありがとう」
そう言って、おじいさんも手を振り返してくれた。それが嬉しくて笑った。
明るい出入り口に立つ私からは、暗闇の中のおじいさんの表情はよく見えない。でも、笑ってくれていた気がした。あの優しい笑顔で笑い返してくれていた。だから私も笑った。
何故お礼を言われたのかは、分からなかった。
次の日、プラネタリウムに行ってもおじいさんはいなかった。
『お休み』の看板がドアにぶら下がってぷらぷらと揺れているだけで、押しても引いてもそのドアは開かなかった。
次の日も、次の日も、おじいさんはいなかった。何となく、もう会えないと分かっていた。それでも分からないふりをした。
分からなくてもいいと言ったのは、おじいさんなんだから。そう心の中で悪態を吐いて、もう開かないドアを小さな拳で“ドン”と叩いた。
それから、土星が殆ど水素とヘリウムでつくられていると知ったのは、中学生の時だった。
その事実を知った時の私は、
“ああ、水に浮くな。”
と思った。
水に浮くと分かってしまった。別に浮かべてみなくても分かる。土星は水に浮く。
そう知ってしまったと同時に私は───ひどく絶望したんだ。
私の心の中の小さな宇宙からひとつ、星が消えたように感じた。またひとつ、またひとつ。知っていくと同時に私の宇宙から星が消えていく。
そうやって、きっといつか、この宇宙はだんだんと光を失って暗闇に包まれていくのだろう。大人になるということはきっと、そういうことなんだろう。
“本当に分かるのかい?”
頭の奥で、おじいさんの声が微かに響いた。
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