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「ってこれだけ送ってきて、ここに来てあげたの奇跡だから」 そう言って、スマホに送られてきた文面を奏多の目の前に突き出して怒りを露にする葵。 「まあまあ、奏多くんが突拍子も無いのはいつものことじゃん」 そんな怒り心頭の葵を柔らかな笑顔で宥めるのは、何となく集められた理由を悟っている世那だ。 そしてそれを何の悪びれもせずに、事が済むのをただひたすら無言でやり過ごす奏多。 つい3日ほど前に唐突に奏多から送られてきたたった一行のメール。 それによって2人は呼び出された。 あの頃呆れるほど3人で音を鳴らしあった、この“秘密基地”に。 「でも来たじゃん」 しらっとした顔で葵の怒りを煽るような発言をする奏多。その横でニコニコと笑顔を保っていた世那が奏多の後頭部をバシッと叩いた。 “余計なこと言うな” その笑顔からは副音声が聞こえてくる。 奏多はジンジンと痛む頭を擦りながら、今は黙っておこうと心に決める。 これ以上葵の機嫌を損ねると、あとで世那から何倍にもネチネチと愚痴を言われる。長い付き合いからの経験だ。 ドラムの前に座って未だに鼻息を荒くして怒っている葵を静かに見守る。 お願いだから怒りながらスネアを小刻みに叩くその癖はやめて欲しい。因みに、怒り度合いで叩く早さが変わる。 「んで、何で急にここに呼び出したの」 ダンッと最後の1音を鳴らして、手を止めた葵が壁にもたれて立っている奏多に向かって聞く。 「…あの後、一度だって集まらなかったじゃん。ここにだって、奏多は一歩も入らなかった」 “あの後”。それは、3人が最後にここに集まった日のこと。その日を奏多は今でも忘れられずにいた。 ────全部、もう辞めよう。 2年前、ここで一本のギターを叩き折った。 父親の、もう使わなくなったギターだった。初めて手にしたギターだった。 それを、自らの手でぐちゃぐちゃにした。そうでもしないと、自分が保てなかった。 ────分かってるよな、奏多。 俺はただ、ここで音が鳴らせればよかった。それが誰にも届かなくたって。この地下に潜り込んで、内緒話しのように小さな音を。 それでも、それすらも許されなかった。 じゃあ俺は、どうすればいい。 音すら鳴らせず、逃げ場の無くなったこの心を何処に連れていけばいい? 鳴らせないのなら、いらない。許されないなら、自ら手放してやる。 泣き叫ぶような俺の心を全部預けて、葵の止める声すらも聞かず、ギターを床に叩き付けた。折れたネックと、衝撃で切れた弦が指に引っ掛かってほんの少し傷を付けた。 小さな小さな傷。身体ごと切り裂くような痛みだった。 涙は、流れなかった。 それ以来、ここに3人が集まることはなくなった。 きっかけは確かにそれだった。でも結局、それぞれが段々ここに来れる状況じゃなくなっていったんだ。 葵はその後すぐに短期留学でフランスへと行かされた。世那も、ピアノ専攻の交換留学で姉妹校のあるウィーンに行くことになった。 全員がそれぞれ、別々の場所で音楽を強制させられていた。わけもわからず、ただただ鍵盤を押し続けていた。 “奏でる”なんて綺麗事。ただ、指を動かせば音が鳴ることを知っているだけ。その音に意味なんて、殆どなかった。 見えない檻の中。鍵は誰も開けてくれない。それなのに、使い物にならなくなったら勝手に野垂れ死ねと見向きもされないんだ。 俺達は、少しずつ壊れていった。 時計の秒針が狂っていくように、少しずつ、ほんの少しずつ。そして、自分たちでも気付かぬうちに、全てを失っていたんだ。 結局、留学までした葵は絶対に受かると言われていた華桜学園の音楽コースには落ち、特別生に選ばれていた世那は交換留学から帰ってきた後からずっとスランプに陥っていた。崩れ始める音が聞こえる。原因は分からなくて、でも何となく分かっていて。それに気付いたら多分、もう此処には戻ってこれない。 そして何もかもに見放された俺は、自分を殺した。 もう音は鳴らさない。陽だまりの様なあの日々は、この狭い部屋に封じ込める。そしていつか、幻影にでもしてしまおう。そう決めたんだ。 あの日を思い出す。今でも苦しくて、息がしづらい。呼吸のリズムさえも忘れてしまいそうなほどに。 3人とも何かを失った。 失って、絶望して、そして器用に笑った。 産まれた時から音楽をやることが決まっていて、それに疑問を抱く隙間さえ無いほど音を与えられ、決められた道を無感情に進んでいた。 周囲の期待。親のエゴ。ちっぽけな意地。 それ全部抱えて鳴らした音なんて、鉛のように重く、濁流のように不透明で、歪んでいる。 でも結局、全部を手放す覚悟までなかった。そんな音でもしがみついていたくて、それを失ったら空っぽになってしまう気がして。 臆病だったんだ。 言う通りにするよ。だから見捨てないで。 心の奥で、小さな自分が叫ぶ。 音を鳴らしていれば、きっと大丈夫。だって、それだけで生きていた。それしかないんだから。でもどれだけ頑張ったって、どれだけ叫んだって意味なんてなかった。 そして突きつけられる。 俺達は、どこまでも落ちこぼれだった。 自分の心のままに、嘘なんてひとつもなく奏でられた瞬間なんて、隠れるように息を潜めて笑い合ったこの場所だけで。 音を鳴らして、笑い合って、それぞれの違う想いが重なりあって、ひとつになる。その瞬間だけ全てを忘れた。 宝石とまではいかないけれど、ガラス玉くらいには輝いていた。ラムネ瓶に入ったガラス玉のようにカラカラと音を鳴らして、太陽にかざせばキラキラと眩しく輝いた。そんな光。 欲しかった。でもどれだけ頑張ったって、そのガラス玉が透明な瓶の中から出てくることはなくて。 カラカラ、カラカラ カラカラ、カラカラ…… 手に入れられないガラス玉を太陽にかざしながら、永遠に見つめていた。 “そんなに欲しいなら割っちゃえばいいのに” 頭の中で、誰かがそう呟く。 “駄目だよ。危ない” 俺達はいつだって正論で突き返した。 “そこまでして欲しくないし” 物分かりのいいフリは上手かった。何が正しいのかも、何を求められているのかも、全部分かっていた。自分の気持ちに嘘をつくのも容易い。気付かないフリは人一倍、上手かった。 目を瞑って、深く息を吐いた。 今でも瞼の裏でキラキラと輝くあの光。あの光は掴めない。もう何度も諦めた。 でも、知っていたはずだ。俺達はどこまでも似た者同士で、 「もう一回、バンドやろう」 そして、どこまでも諦めが悪いことを。 「これが最後。全部、終わらせよう。あの日、叶わなかった続きを、もう一度始めよう」 あの日から倒れたままだった砂時計をもう一度立て直そう。砂が溢れ落ちるまであとほんの少し。それがきっと俺達に許された時間。 「そして今度こそ、諦めよう」 音を諦める為に、音を鳴らすんだ。 キラキラと輝くラムネ瓶は割らない。でも、捨てもしない。そのガラス玉が手に入らなくても、触れられなくても、そこにあるのは確かだから────。
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