57人が本棚に入れています
本棚に追加
/101ページ
2
「五十嵐 澪か……」
世那は先程の中庭でのやり取りを思い出して、思わずポツリと呟いた。
あの後、昼休みの予鈴のチャイムが鳴って彼女はそそくさと自分の教室に帰っていった。
その後ろ姿を見送ってから、「よいしょ」とわざとらしく声を出して自分も立ち上がる。
制服のポケットに手を突っ込んで、さっき彼女が言った言葉を思い出していた。
“それでも、もうこれは私の音だから”
あの目、気に食わない。
真っ直ぐで、疑う事を知らない。
そのくせ強かで、全てを飲み込んでしまいそうな目。
純粋──にしては程遠い。痛みも穢れも哀れみも全て写してきたはず。それでもただ“今”だけを見つめている。
「…何も無いくせに」
だからなのか、無性にぐちゃぐちゃに壊してやりたくなった。
正しいのは、いつだって“自分”だけだったんだから。
世那は一人、ふっと息を吐いて笑みを溢した。そして、校舎の中へと歩きだす。
専門コースの生徒は基本、午後は実習で殆どが各々で時間割りを決めている。世那が在籍する音楽コースは大体がリハーサル室で練習するのがお決まりだった。
でも世那はリハーサル室がある2階を素通りして、3階へと足を進める。そして、ちょうど校舎の真ん中にある新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下の前で、ピタリと止まった。
その視線の先には、渡り廊下の真ん中で半分ほど開いた窓の冊子に頬杖を付いて立ちすくむ男。入り込んだ風が、男の髪をさらさらと揺らしていた。
「奏多くん」
その声に、目線だけをこちらに向ける。
世那が来るのが分かっていたのか、然して驚く様子もない。
奏多のその態度は世那にとっては想定内で、気にする事もなく隣まで足を進めて窓に背中を預けた。
「盗み聞き?趣味悪いなあ、奏多くん」
「俺がいるの気付いてたくせに」
尚も外を見ながら話す奏多。その視線を辿れば、先程のベンチが真下に見える。
「ばれてたか」と惚けたようにカラカラと笑った世那に、呆れたようにため息を吐いた奏多。
「ため息を吐きたいのはこっちなんだけどなぁ。知ってるよね?僕が自分の曲弄られるの好きじゃないこと」
「お前の曲?あれはreyの曲で、作ったのはRyoだろ?」
体制はそのままで、じとりと隣の彼に視線を送る奏多。世那は、その目を冷たい視線で睨み返した。
「それとも────」
視線が交わる。どちらとも逸らす気はない。
真実なんてものは、それを知っている者だけのものだ。目に見えるもの全ては虚像に過ぎなくて、それでもそれが“真実”と疑わなければ、それが全てなんだろう。
「それとも、Ryoはお前の兄貴でreyの楽曲は本当はお前が全部作ってるゴーストライターですって言ったほうが良かった?」
それが例え、まがいものだとしても──。
「ふざけてんの?」
奏多の挑発的な視線に、苛立ちを隠さずさらに睨み付ける。一瞬にして、その場が焼けつくような空気が2人を包んだ。
「本当の事でしょ」
「僕は」
もたれ掛かっていた背を起こして、奏多の後ろに立つ。その背中に向かって、凛とした声で言葉を投げた。
「間違ってないよ」
その声に、やっと奏多も振り向く。
「“今はまだ”な」
向き合った二人の間を、初夏の風が通り過ぎた。
ゆらぐ、ゆれる。
その心は、どうすることも出来なくて、それでも信じていると、どこか自分に言い聞かせている。誰かの声を聴いている暇さえない。耳を塞いで、ただ自分の鼓動にだけ耳を傾ける。そうでもしないときっと、立っている事さえ出来ないから。
新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下。2人は別々の方向へと歩きだした。それは、どちらが明るい道なんかなんて、誰にも分からない。
ただ、自分で選ぶしかない。間違ってても、狡くても。気付かないフリなんて、いくらでもしてやる。
「いいよ、奏多くん」
新校舎の端っこから、世那がそう言った。
「は?」
意味が分からず、足を止めて振り返る。渡り廊下の端と端。
「やってあげる」
「なにを」
それほど遠くはない距離で交わる2人の思惑。
「奏多くんの考えてる事なんてお見通しだよ」
にこりと笑って、その目を細める世那。
その顔を見て、「はぁ」とため息を吐く。
「そういう察しのいいところだけは嫌いだ」
「ありがとう」
「褒めてねぇ…」
渡り廊下の端で項垂れる奏多を見て、またカラカラと笑い声を響かせる世那。
ひとしきり笑ったところで、記憶を辿るように、懐かしむように、もう一度窓の外に見えるベンチに目を向けた。
「みんな一緒だよ。奏多くんだけじゃない。僕達みんな、同じ思いだから。いつまでも生温い場所にはいられない。戻る事もきっと許されない。だから前に進まなきゃいけない。無理矢理にでも、どれだけ卑怯でも」
「分かってる」
「葵には僕から話しとくから」
「…ああ」
「それにしてもさ、僕達って」
もう一度、奏多の方に向き直す。ふっと息を漏らして呆れたように笑った。
「……最低だね」
たった一言、それだけを言い残して校舎の奥に姿を消した世那。
奏多は、世那が居なくなってからも渡り廊下をじっと見つめる。
そんなこと、言われなくたって──
「知ってる」
ひとりごちたその言葉を置き去りにして、奏多も世那とは反対側へと足を進めた。
進んでるよね?
こっちで合ってるよね?
うん、大丈夫。まだ、大丈夫。
だって、それしか方法が見当たらない。そうじゃないと、足元が砕けて今にも沈んでしまいそうだ。息の仕方すら、もう忘れかけてる。
誰でもいい。なんでもいい。
あとほんの少し残った惨めな自分が叫びだす。
助け出してあげるから。あともう少し待っていて。溺れる前に、救ってみせるから。
俺達は再び、音を鳴らし合う。
どうすることも出来なかったあの頃の自分を、どうにかする為に。
最初のコメントを投稿しよう!