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成瀬珈琲店
空はまだ、ぼんやりと白けていた。澄み切った朝の空気を吸い、今日一日が幸せにならないように願った。幸せにならないかわりに、大きな不幸も起こりませんように――。
朝六時半には店に着いて、開店準備を始めなければならない。高校に入学しても、その習慣は変わらなかった。
「今日はいつもより遅刻だな」
隣を歩く父はそう言って、早足になった。私も遅れないようについて行く。
店は駅前の商店街から一歩外れた路地裏にあった。レンガ造りの壁に緑のツタが一面に生い茂っていて、歴史的な重厚さを感じさせる外観。店先に生える樹木とツタに遮られ、一目見ただけではここが喫茶店であるかどうかは分からない。隠れ家的なお店というやつだ。
店に到着すると父はドアを開け、アンティーク調の照明に灯りをつけた。中に入ると、レンガ壁に染みついたコーヒーとタバコの香りが私の鼻をくすぐる。その匂いで、身体の中に残っていた眠気がすっかりと消えた。
父が店の奥でコーヒー豆を焙煎している間、私は店内の掃除を行った。箒で埃や塵を取った後、モップで水拭きをする。足を肩幅大に広げ、後退しながら掛けていく。
床の掃除が終わると、クラシカルな木製テーブルやカウンターを丁寧に拭いた。水分を含んだ木の表面が綺麗に艶光りする。やがて店内にキャラメルのような甘い匂いが流れ、それは次第にコーヒー独特の香ばしさへと変わっていった。
この匂いが二巡すると、焙煎は終了する。
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