プロローグ

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 ()られる──そう思った瞬間には、襟首を掴まれ、力任せに地面から引き剥がされていた。 「追いかけてきたから逃げるって、どういう了見だゴルアァッ!」 「あっ……あんたのその、鬼みたいな顔が追いかけてきたら、普通逃げますよ!」 「誰が鬼だとコラ、舐めてんのかオラァッ!」 「舐めてませんよ舐めてませんよ!」 「逃げるってこたぁ、テメエに何かやましい事があるからだろうがコラアッ!」 「ないですないです!」 「──ウエハラ、ユウスケ」  不意に割って入ってきた落ち着いた声に、至近距離で揉み合っていた二人が同時に顔を向けた。  最初に聞いた、僅かな掠れを含んだやわらかな低い声の持ち主が、あろうことか男のリュックを勝手にあさり、財布から運転免許証を取り出していた。 「なっ……ひ、人のもの勝手に……何やってんすかあっ!」 「23歳」 「わーっ、個人情報ーっ!」  取り返そうと腕を伸ばすが、坊主鬼が離してくれない。  無表情に運転免許証を眺める小柄なほうの男は、息も乱れてなければ汗すらかいていない様子だった。その男の周囲にだけ涼風が吹いているようで、時折男の漆黒の髪がさらりとなびく。  雪のように白い肌と冷たい光を放つ瞳。紅く薄い唇からは皮肉ばかりが漏れてきそうだ。  にもかかわらず、綺麗だな、と汗だくの男、ウエハラは思った。きっと女性たちはああいう男がいいと言うのだろう。どこか影があり、どこかミステリアスで、まるで黒猫を思わせるような。  その点、自分を掴んでいる坊主鬼、こっちは、決して醜男という訳ではなく、よく見れば精悍な、整った顔立ちをしているが、女性にとってはきっと自分と同類──“いい人”だの“友達”だのといった、(てい)のいいカテゴリに分類されるタイプだ、間違いない。
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