623人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
夜半過ぎともなると、駅前通りといえどさすがに人も車も少なくなる。華やかで鮮やかな色を放つネオンも、どこかしらじらしい。
喧騒が引いた真夜中の雑多な街に、必死で駆けるスニーカーの音と、己の息づかいだけが響き渡る。足の筋肉は限界だと訴えている。雨など降っていないのに、視界に映るビルや様々な色の発光体が奇妙に歪む。
歩行者用の信号は赤だったが、男は走る事を止めず片側3車線の広い通りを横切った。反対側の歩道にたどり着いた男のすぐ後ろを、乗用車が一台、猛スピードで走り抜けていった。
立ち止まり、戦慄く両膝に手をついて喘ぐ。体じゅうの細胞が、空気を求めて悲鳴を上げていた。男は既にもう5分以上、全力疾走していた。
荒い息をつきながらそっと後ろを振り返り、そして男は絶望を知る。
鬼のような形相の、坊主頭の男が、スプリンターばりのフォームで迫ってくる。しかも自分との距離はどんどん縮んでいる。
あり得ない。
普通の人間であれば、全力疾走可能な持続時間など30秒が限界だ。
ああ認めよう、俺は全力疾走などしていなかった。5分間、一生懸命走っただけだ。それがあの坊主男は、あいつはドーピングでもしてるのか?
坊主男が通りを横断し始めたところで我に返り、慌てて駆け出そうとして足がもつれ転倒した。コンクリートに体がぶつかる「ごつっ」という鈍い音に続き、肘と膝にじわじわと痛みが広がる。
もう、駄目だ──ぎゅっと目を瞑った男の耳に、短いスパンの規則正しい靴音が近付いてきて、男の傍らで止まった。
荒い呼吸音が重なる。たとえ化け物のような体力の持ち主であっても、息は切れるらしい。
傍らに立った坊主男は、暫し息を整えることに専念しているようだ。地面に伏せたままの男の頭上から、呼吸音とともに汗までも滴り落ちてきそうだった。
その暑苦しい呼吸音に、新たな靴音が加わった。坊主男と違い、余裕の足の運びだ。
「このまま朝までここで寝てるつもりか」
後から来たほうの男が言ったのか、僅かに掠れを含んだやわらかな低い声は、呼吸の乱れを微塵も含んでいない。男は目だけを声のほうへと向けた。
最初のコメントを投稿しよう!