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5、一目ぼれ
女性は渉にもう一度向き直り、今度は丁寧にお辞儀をしてみせた。片手にカメラ、片手に手帳を持った手をそろえて。そしてにっこり微笑み、行ってしまった。
それだけのことだった。
小柄の女性はシンプルな薄手の黒いスーツ姿で、髪を編み上げにしていた。頭を下げると、背の高い渉には、女性のつむじに見える真白い地肌の色がはっきり見えて、それが残像となった。つづいて、一瞬見えた黒目がちの大きな目。
それだけのことだった。
なのに、渉はその女性の後ろ姿を目で追いかけていた。女性は、おじさんの、いや、今日の主役である作家「白野 楽」の立っている真ん前に走っていく。敏捷な動き。
渉は気がつくとぼうっとなってしまっていた。そしてそれは、白野があいさつを始めるまで、続いたのだった。
いっぽう、おじさん、つまり「白野 楽」は、渉が来るのを待って、目で出入り口付近をさぐっていた。すると、ようやくにして現れたかわいい甥っ子の前を、黒い小さい、はしっこいものが横切ろうとした。
『あ、ぶつかる』と思う間もなく、そのきゃしゃな生き物は、さっと身をかわした。
『ナイス』
おじさんは心の中で親指を突き立てた。
見ると、その娘は、渉に向けて腰をかがめたあと、くるりとこちらに向き直ると、器用に人垣をぬって、自分の真ん前までくるではないか。
おじさんは、その動きに見とれていた目のままで、気がつくと真正面からまじまじとみつめているかっこうとなってしまった。
「では、白野 楽先生よりご挨拶を……」
司会進行役の浜野がおじさんに向けて片手を差し出した。浜野は○○書房における白野 楽の担当の編集者である。
「白野先生、どうぞ」
浜野はにこやかな表情を崩さずに、もう一度言った。しかし白野はマイクをとろうともしない。
「白野先生?」
今度は遠慮がちながら、やや怪訝そうな声。
「白野……」
「ああ、はいはい」
ようやくにしておじさんは我に返ったようであった。
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