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6、おじさん、しどろもどろ
おじさんはマイクをとった。
「えー、本日はお日柄もよく、いやいや。
拙作『愛するあなた』は、わが新境地ともなるもので、意外に思われるかもしれませんが、純・恋愛小説なのであります。
意外という意味は、この作品は一見、猫と中年男の一見何の起伏もない日常を……、あ、いやそれは読んでいただければお判りでしょう。
それより、つい先ほど、次回作の妙案がおのれのうちにわき出だしてまいりまして……」
その言葉を聞いて、会場の多くの視線が、あらためてはっとおじさんに注がれた。
「と申しましても、それはいまだ着手ならず、下意識の領域にて、ぽっと灯りがともったごときものにて。
ところで恋愛小説の傑作と言えば、かのスタンダールの精緻なる恋愛心理の描写もさることながら、私はドストエフスキーこそがその頂点に輝くたぐいまれなる書き手と……」
会場の空気は目に見えるかのようにだれてきた。
浜野が目でおじさんに促した。
気の弱いおじさんは、そそくさと話を切り上げた。
「そのお話は、またのちほどごゆるりと」
おじさんがいつになくふわふわとしていることに、本来の渉なら気づいたはずなのだが、渉もまたおじさんをみつめながら、まったく別の想念に支配されているのであった。
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