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第三章 魂は手や足を離れて…
京都の小さな商店街
明日のイベントの準備を終えた優作が事務所に戻ろうと歩いていると、後ろで男の吠えるような声と、女性の悲鳴が同時に聞こえた。振り向くと、女性を切りつけた男が血に染まったナイフのようなものを振りかざしながら、凄い勢いでこちらに向かってくるのが見えた。
逃げなければと瞬間思ったが、身体はすぐには反応してくれなかった、見てしまった強烈な映像がまだ心を支配していたからだ。その分、あっという間に男の姿が目の前に迫っていた。男に背を向け、逃げようと1歩を踏み出した時、自分の背中に熱い刺激が走った。そのまま倒れた。かろうじて残された力で身体を回転させ、地面に手をつき、立ち上がろうとしたとき、優作が見たものは鬼のような形相の男が自分の身体をめがけてナイフのようなものを振り落そうとしている姿だった。グッという音とともに、視界がぼんやりとして見えなくなってゆく…。
夫と別れてすでに5年経っていた。実は、子供もいない。かおりは今デザイナ-として仕事をしている。その日は締切の迫ったデザインを仕上げるために、事務所で一心不乱に仕事をしていた。翌日、優作と会う時間をつくるために。
ようやく仕上がったのは、午後8時。事務所で軽い食事を済ませ、家へ戻り、いつも見ている午後9時のニュ-ス番組を見る。いつもなら、政治、経済のニュ-スから入るのだが、その日は事件のニュ-スから始まった。
本日午後2時、京都の○○商店街で男がナイフのようなものを振りかざし、通行人に切り付けました。被害者の方は5人で、そのうち2人の方が病院搬送後に亡くなりました。亡くなられたのは…。
画面に映し出された谷崎優作という名前。その事実を突き付けられた時、脳味噌の中を走っているか細い神経が一斉に痙攣を起こした。あまりに酷い。声が出なかった。身体が震えていた。室温が下がっていくように感じられ、キッチンの椅子に手をつき、震える身体を支えながら
「どうして、どうして」
と小さな声で叫んでいた。
翌日、かおりは透明な糸に操られるように約束の時間に待合せ場所だった中学校の校門の前へ行った。その後の報道で、優作には5つ年下の妻と5歳の娘がいることがわかった。何の前触れもなく、突然、夫との平凡な日常を奪われた妻の悲しみの深さは決して他人には伺い知れない。
私も同じように悲しい。でも、私に許されているのは涙を暗闇に押し込むことだけのような気がする。
たった3日間だったけれど、指を折って数え上げるような毎日だった。そう思うと、目の前の景色がふくれあがり、水の底のようにゆらゆらと揺れた。だが、涙は堪えた。
あの時あなたは家族の話題を避けていたのでわからなかったけれど。恐らく、夫婦仲は悪くなかったに違いない。優作は嘘をついた。でも、私も優作に嘘を言った。私は、夫と別れていたからだ。
フェイスブックがきっかけで20年ぶりに会って、二人で学校の周辺を歩いているうちに、お互いが、全てを投げ出してでも、もう一度二人でやり直したいという覚悟をしているのがわかった。そんな話は一切しなかったけれど。
それは、私にとっての願いでもあった。私はずっと優作のことが忘れられなかった。久しぶりに会って見て、やはり好きだった。でも、それが恐かった。だから、私は嘘をついた。自分の気持ちを止めるために。でも、優作は嘘をついてでも、現実を越えようとしていたのではないか。彼らしいと思う。
一昨日と同じ、川沿いの道を歩く。川はくっきりと空を映している。道には風で散った桜の花びらが純白の絨毯のように敷き詰められている。その上を前方から一昨日も会った中学生のカップルが、腕を組みながら今日は私服姿で歩いてくる。それがかおりにはバ-ジンロ-ドの上の優作とかおりの姿と重なって見えた。二人は楽しそうに会話を交わしながら、かおりの横を通り過ぎて行く。
柵にもたれて川の流れに目をやる。振り向いて、小さな声で言って見る。
「それで、今日私に何を言うつもり」
そこには、優作の姿はない。
優作が何を言うつもりだったのか、もう知り得ない。言ってはならないことを言って、また私を苦しめるつもりだったの。
でも、あなたのことだから、軽口めかして、
「すべてを捨ててもう一度俺とやり直さないか。なんて、冗談だよ」
とか言うつもりだったのかもね。それが冗談ではないことはわかりきっているのに。悔恨の底知れぬ深さだけをただ見つめていると、心の中の小さな炎が消え、自分の心が風のように透き通るように感じた。ふいに涙がこぼれてきた。今の今まで我慢していた、その涙を、愛おしいと思った。
自分を取り巻くものがどんどん曖昧になり、風景は途切れ途切れの断片になる。のろのろと歩き出したかおりの前に近づいてくるバスがゆらゆら揺れている。一瞬でも幸せをくれた優作に別れを告げる。
「ありがとう。そして、さようなら、優作」
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