壊れた針

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壊れた針

「行ってくるよ」 「気を付けてね。夕飯はあなたが好きなカレーライスを作って待ってるわ」 「おう、それは楽しみだよ」  明るく言って、夫の純大(じゅんた)は玄関から出ていきました。 「行ってらっしゃい」  私は純大がいなくなった玄関に呟きました。  午前中、私は洗濯機を回し、リビングや台所を掃除しました。洗濯物を干し終え、一息つこうと思い紅茶を入れる仕度をしていた時でした。  インターホンが鳴ったのです。うちには殆ど来客はありません、もしかしたら勧誘か販売かもしれません。純大がいないので、自分一人で対応して、断らないといけません。  私は設置されている受話器に手を取り「はい」と声を出しました。 「久しぶりだね。澄歌(すみか)ちゃん、私だよ、覚えてる?」  その声に、私は驚きのあまり言葉を失いました。専門学校時代の友人である白帆(しほ)だったのです。 「白帆?」 「覚えていてくれてたんだ。嬉しいよ」  私の脳裏には嬉しさよりも、白帆と激しい口喧嘩をしたことが過ります。  思い出したくない内容だったので、私は表情を暗くしました。  が、私は過去の記憶を抑え、白帆に訊ねました。 「どこで連絡先を知ったの?」  私が住んでいる場所は家族や信頼できる友人にしか教えてないのです。  白帆には当然伝えてないのです。その質問に白帆は「ごめんね」と軽く謝り続けました。 「晶奈(あきな)ちゃんに聞いたの、澄歌ちゃんに会いたいからってお願いしてね」  晶奈とは白帆同様に専門学校時代の友人です。  晶奈にも私の住所は教えています。元に新居にも遊びに来ました。晶奈も私と白帆に起きた出来事を知らないことはないと思います。  もしかしたら晶奈は終わったことだと思い、白帆に教えたのかもしれません。しかし、私には昔のことだとは割りきれません。  私が考えて黙っていると白帆は声をかけてきました。 「……澄歌ちゃんに伝えたいことがあるから、ここまで来たの、お願いだから中に入れて」  白帆は強い口調で私に言いました。  彼女の声からは何か強い意思を感じました。帰らせることも考えましたが、少しくらいは話を聞いてみようと思い、私は白帆に返しました。 「分かった」  私は白帆に言い、玄関に向かいました。 「はい、これ手土産」  テーブル席についた白帆は白い箱を机に置きました。 「中身は何?」 「マドレーヌだよ、心配しないで純大君がダメなバナナ味は無いから」  白帆は安心させるように言いました。純大はバナナアレルギーで、ちょっとでも食べると蕁麻疹が体に出るからです。  白帆はその辺りは気遣ったようです。 「……そう」  私は言うと、自分で淹れた紅茶を一口飲みました。 「それで一体何の用?」  私は白帆に聞きました。  相手が晶奈なら楽しく話をしていたでしょうが、白帆は喧嘩別れしたので、そうはいきません。  白帆には悪いですが用件をさっさと聞いて、帰ってもらおうと思っていました。  白帆は落ち着きなく体を動かしていました。やがて意を決したように立ち上り、私の目の前で土下座しました。 「純大君の件は本当にごめんなさい、私が間違えてました。反省しています」  白帆は私に謝罪の言葉を口走りました。  昔に遡りますが、今から五年前、白帆は当時私と付き合っていた私と同じ専門学校に通っていた純大を盗ろうとしていたのです。  幸いにも純大は私を選んでくれて、白帆の行為は未遂となりました。  が、私は人の彼氏を盗ろうとしたことが許せず。私は白帆と激しい口喧嘩となりました。結果としては仲直りできずに専門学校は卒業し、お互い疎遠になりました。  こうして白帆が私の前に再び現れて、詫びの言葉を述べるのは私との関係を修復したいのだと感じました。  白帆は頭を上げず。今までの自身が起きたことを淡々と語り始めました。新卒で入った会社では同僚との関係が上手くいかず一年で退職し、更に大好きだった祖父が他界し、それらは友人の彼氏を盗ろうとした罰なのだとも悲しみを滲ませて言いました。 「だからお願いします。私ともう一度友達として付き合うチャンスを下さい」  白帆の切迫した口調は、私の胸に刺さりました。  様子を見る限り反省してるでしょうし、過去のことを許そうかと思いました。  が、脳裏に一つの可能性が過りました。仲直りを口実に純大を奪いに来たのではと。考え過ぎかもしれませんが、純大とは四年の歳月を経て結婚し、やっと夫婦になれたので、白帆のせいで壊されるのは嫌です。  白帆の顔を身近で見るために、私は白帆に近づき身を屈めました。 「白帆、顔を上げて」  白帆は恐る恐るといった感じ顔を上げました。 「白帆の気持ち分かったよ。純大のことは反省してるようだしね」 「それじゃあ……」  白帆は嬉しそうな顔になりました。私は白帆に悪いと感じつつ、白帆に言いました。 「ごめんね、白帆とやり直すことはできない」  私の一言に、白帆の表情は凍りつきました。  白帆と友達の関係を戻すのはできません。白帆に今ある幸せを台無しにされたくなかったからです。 「だから帰ってくれるかな」  私は少しきつく言いました。白帆は動こうともしませんでした。 「どうして……できないの?」  白帆は弱々しい声で私に聞きました。 「昔と今は違うからよ、白帆とは元の関係には戻れない」  私ははっきり言いました。一度崩れた信頼は簡単には戻せないのです。白帆が反省したとしてもです。  私の言葉にようやく諦めがついたのか、白帆は「分かったよ」と小さな声で呟き、立ち上がりました。 「さよなら、澄歌ちゃん」  白帆は泣き顔で言うと、玄関に向かって小走りしました。  胸が痛くないと言うと嘘になります。しかし白帆と付き合っていく自信はありませんでした。 「これで、良いんだ」  私は自分だけになったリビングで囁きました。  白帆のカップと私のカップをキッチンで洗い終えた直後のことでした。ポケットに入れていた携帯電話が鳴りました。 「誰からだろ」  私はポケットから携帯電話を出すと、液晶画面に「晶奈」の字が記されていました。  何の用かと思い、通話ボタンを押し、私は「もしもし」と声をかけました。 『あっ、澄歌、今大丈夫?』  晶奈の声はどこか慌てていました。 「今は平気だけど、どうしたの? 急に」 『あのさ……落ち着いて聞いてほしいんだけど、白帆がね……亡くなったのよ』  晶奈の話に私の開いた口が塞がりませんでした。さっきまで白帆とは話をしていたからです。 「それって……いつ?」 『昨日の夜だよ……柚から連絡が来て、白帆が亡くなったって……』  晶奈のいう柚とは専門学校時代の友人である柚希(ゆずき)さんのことです。柚希さんは晶奈と白帆とサークルも同じだったこともあり、仲が良かったのです。  ただ、私は彼女と親しい訳ではないです。  晶奈に白帆と会ったことを言いたかったですが、晶奈は心霊話の類いを嫌うので、この場では伏せることにしました。 「分かった。私は純大に白帆の件は伝えるよ、詳しいことが分かったら連絡して」 『うん、分かった』  晶奈との連絡は一旦終わりました。 「私が会った白帆は何だったの?」  私は考えました。  亡くなってるなら、白帆は幽霊ということになりますが、そんな風には見えませんでした。 「いけない、純大に連絡しなきゃ」  携帯電話を操作し、メールを打ちました。  それから私と純大は白帆の葬儀に行きました。白帆の両親、晶奈と柚希さんにも会いました。  白帆の両親は話しかけるのを躊躇うほどやつれており、白帆のことは葬儀が終わった後に四人で向かったファミレスで柚希さんから聞くことになりました。  ……柚希さんは社会人になった今でも白帆と度々会っていて、白帆の相談にも乗っていたそうです。  白帆は職場の上司と不倫の恋に落ち、白帆はその上司と真剣に結婚を考えていたそうです。  純大を奪いそうになった白帆ならやりかねないなと、私は感じました。  相手の男性も、奥さんとは離婚して白帆と結婚すると言ったそうです。しかしいつまでも男性は奥さんと別れません。自分の両親には結婚したい人がいるから紹介したいと言っていたので、男性の対応に苛立ちを感じたのです。  白帆は男性の奥さんのいる家に行って男性と別れるように訴えたそうです。これは柚希さんの意見に従ってやったことで、本当に実行したみたいです。  が、奥さんは夫と別れる気はない、夫のことは愛してるので諦めて欲しいと言われました。奥さんの意見は最もだと思います。不倫の恋はしてはいけないのです。  更に奥さんは今の夫との間に子供がいて、別れれば産まれてくる子供を傷つけることになるとも言いました。  白帆は子供と聞き流石に身を引こうと決心したそうです。  上司とは別れ、職場も居づらくなり退職したのです。  これは白帆が亡くなる一週間前に、柚希さんが白帆から聞いた話だそうです。  白帆が亡くなった原因は交通事故で、信号無視した車が白帆に突っ込んだのです。この話は晶奈がしてくれました。柚希さんは白帆のことを話すのに疲れてしまい、晶奈が続く形で言いました。 「……自殺じゃないよね」  私は重々しく言いました。  晶奈はコーヒーを一口飲んでから答えました。 「そうだと思う」 「こう言っちゃアレだが、あいつのことだからすぐに立ち直って新しい相手を探したんじゃないか」  純大は早口で言いました。確かに精神が強い白帆ならあり得そうです。  純大が白帆を名前で呼ばなかったのは私への気遣いなのでしょう。自分で言っておいて難ですが、白帆の自殺はあり得ないと思いました。  三人とも白帆のことを言ったのだから、私も二日前のことを言おうと思いました。 「あ……あのさ、怖い話になるけど……」  私は前置きをしておいた。予想通り、晶奈は不安な目付きになりました。  晶奈に悪いと思いつつ、私は二日前に白帆と会ったことを話しました。白帆が私に謝罪し、私は白帆の仲直りを断ったことを。  聞いていた三人は黙りました。話の内容が内容だけにどう言って良いのかすぐに出てこないのでしょう。  私も信じられないくらいです。既に亡くなっていた白帆が私に会いに来たなんて……  沈黙を破ったのは柚希さんでした。 「私ね、白帆から澄歌さんのことで相談を受けてたの。どうすれば澄歌さんに許してくれるかなって、一番仲が良かったから仲直りしたいって」  柚希さんは悲しさを含んだ声になりました。 「柚、よしなよ、澄歌の気持ちも考えてあげて」  晶奈は柚希さんの話に口を挟みました。五年経っても白帆の行為は晶奈も許せないのです。  晶奈が白帆の葬儀に来たのは、白帆ではなく私と柚希さんに会うためだったのです。 「……俺としてもあいつのことを許せとは簡単に言えないよ、澄歌の気持ちを考えなかった訳だし」  純大は腕を組みました。  微妙な空気になりました。柚希さんを除き、私を含む三人とも白帆を許してないのです。  私はふと店内に設置している時計を見ました。二十一時です。時間も遅くなりましたし、疲れている頃でしょうから、そろそろ  帰ろうか、と一言言おうとしたその時でした。 『もう……許してくれないんだね……』  白帆の声が私の耳元に聞こえました。  同時に私の手首から「ピキッ」と何かが割れる音がしました。  私は辺りを見回しましたが、白帆は当然いません。 「おい、どうした」  純大が心配そうな顔つきで、声をかけてきました。 「今……白帆の声がした」  私は言いました。 「私は聞こえなかったけど、柚は何か聞いた?」  晶奈の問いかけに柚希は首を横に振りました。  三人の様子からして、声が聞こえたのは私だけのようです。  私は割れた音が気になり、手首を見ました。時計のガラスが割れ、針が止まっていました。  これは白帆の悲しみなのだと思いました。  翌日、私は神社に行ってお祓いを受けに行きました。  私の話を聞いた神主さんは言いました。 「魂だけになってあなたに会いに来たのも、あなたに許してほしかったからです。少しずつで良いので、相手のことを許しなさい」  一理ありました。私はゆっくりとですが白帆のことを許す努力をすることにしました。  それに、土下座して謝罪したのに許してもらえないと白帆が悲しいだろうし、成仏できないと思ったからです。  私が最初にやったのが、白帆と過ごした時間を振り返ることでした。買い物したり、飲み会に行き笑い合ったこと、テスト勉強をしたり……  関係に亀裂が入る前るまでは、楽しく過ごせてたと思いました。  次に何故白帆が純大を盗ろうとしたのか、を考えました。確か白帆は私に彼氏がいるのに、自分だけ相手がいないのが不公平だった。と言ってました。  白帆の言い分に納得できず、私は白帆と激しい口論となったのです。 当時の私は純大を盗られそうになった怒りで冷静では無かったのです。  気づくのが遅くなりましたが、純大は私を選び、結果として純大と別れずに済んだのですから、白帆のお陰で純大との絆が深まったと思いました。  落ち着いて物事を見ると、良い方向も見えてくると感じました。  私が白帆のことを許したのは、白帆が亡くなってから約一年が経ってからでした。  白帆の一周忌をやるという連絡を受け、私は一人で身支度を整えていました。 「……本当に行くのか?」  純大は訊ねました。今回純大は行かないのです。 「行くよ、白帆は友達だから」  私ははっきりと言い切りました。時間はかかりましたが、友達と呼べるまでにはなりました。 「昔のこと許したのか」  純大は躊躇いがちに聞きました。そう言うのも仕方ないでしょう。 「うん、よくよく考えたら、私も怒り過ぎたかなと思ってる」  私は言いました。純大にも「許せ」と自分の考えを押し付けたくないです。  私が純大と付き合っているにも関わらず白帆は執拗に純大に付きまとっていたのです。純大は優柔不断な性格もあり、はっきり断われなかったのです。  家に純大一人でいた時に白帆が来た時は困ったようです。その際、純大はようやく白帆にちゃんと言いました。自分は澄歌と付き合ってるからもう諦めて欲しい。と。  それきり白帆は純大に付きまとわなくなりましたが、私は白帆の行為を許せなくて口論となったのです。  ……もう終わったことですし、蒸し返すのはやめておきます。  身支度を終えた私は玄関に行きました。 「気を付けてな、夕飯はどうする?」 「じゃあ、お願いしようかな」  私は「行ってきます」と純大に一声かけて、外に出ました。  空は快晴で、出かけるには最適な日です。  バックから音が鳴りました。私は音の元である携帯電話を出しました。 「えっ」  私は思わず声を漏らしました。メールの差出人は亡くなった白帆からだったのです。  少し怖いと思いつつ、私はメールを見ました。 『許してくれて有難う。私の家に行くときは気を付けて来てね』  悲しさも微塵もなく、温かく私に気を遣う文面でした。  私は白帆のメールを保護を付け、携帯電話をバックにしまって歩き出しました。
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