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桃花城公園奇譚
仕事の無い休日、わたしは住み慣れたこの城下町でカメラを下げて散歩に出かける。
もともとは趣味だった、少し前は仕事にするつもりだった、それから学校の事務というあまり関係ない仕事についても、ちょっと褒められたぐらいで調子に乗って、今もまだその道をあきらめていない相棒。たまにわたしが浮気もするけれど、そんな時は必ず調子を悪くしてしばらく言うことを聞いてくれないやきもち焼き。
ナップザックには小銭の入った財布とおにぎりに水筒。おかずの入ったタッパー。
天気予報だと午後からあいにくの天気らしいから、今日の散歩はいつも行く桃花城公園にしよう。
あそこは今桃の葉がみどりで綺麗だし。さすがにお堀の鴨はもう北へ帰ったけれど、夏めいた風が気持ちよくて、庭の池にはザリガニ釣りの子供が溢れて、持って帰ってはいけないのに懸命に頭数を競っているだろう、いつものように。
わたしは軽装で出かける。
この街は城下町、歩く道も車通りは激しくもなく店はそれなりに活気もあって、桃花饅頭やら桃花パフェやら、観光客目当ての特産品ののぼりがあちこちに立っている。あそこの桃花ケーキは飾りに砂糖漬けの桃の花があしらってあって、人気となり取り寄せまで出ているらしい、テレビでやってた。
この街は桃花街ではない、名前は何度かの合併と街づくりで味気の無いものになってしまった。この街の特産も桃ではない。そしてそれでも城下町の小さな神社は、城と同じ桃花の名を掲げて、もう街には殆どなくなってしまった田んぼの豊作と商売繁盛と平和な暮らしを祭り続ける。桃の葉に守られながら。
わたしはしばらく道を歩く。大きなみどりの公園、甘味処の道向かい、ここが桃花城公園の入り口だ。
ほんとうはもっと大きいから、駅を一つ越えて一つ、市役所近くにも一つ、それと住居街にも一つ、つまり四つは入り口がある。でもわたしはいつもここから入って、お堀の鴨にザリガニ釣りの子供と少し上った先の花木園だけ見て天守閣を見上げ帰っていく。大き過ぎるから。
お堀には水草の蒼、黄色い花が咲き、まだ蜻蛉が飛ぶには早いみたい。道沿いに歩けば例の如くに子供たち。餌はコンビニでも売っているから。
ここでいつも相棒とデートするのだ。黄色い花はいつも撮ってはいるし、子供達のは肖像権があって難しいけれど、それならあの鷺はどうだろう、いや、鷺は平凡すぎる、川蝉は今日はいないだろうか、青くて映える川蝉は。
身近なものこそ撮るに値するのかもしれない、そして上手い人は身近なものから奇跡の一瞬を切り取ってしまうのだ。
わたしはそれを撮りたい、せめて、この目で見たい。
震災に喘ぐ街を、戦禍に怯える人々を、勝利に酔いしれるサッカーチームを、何か大きな賞を取って報われる老作家を。
わたしは、まだどれも写真でしか知らないから。
「何か撮れましたか」
シャッターチャンスを探しながら歩いていると、ほうきとちりとりを持って、市の制服を着た老人に話しかけられた。
「いえ、また何も」
まだこれといったいい写真が撮れない、わたしの限界かな。
「どうです、この桃、時期は過ぎたけれどこんなに蒼い葉をして、いい写真が撮れませんか?」
花木園にあるこの桃の老木なら街の人は誰でも知っている。かつて城と街を収めた何代目かの名君、ちょうど暴れん坊将軍と水戸黄門を足して割ったみたいな逸話がある永康公の好きだった桃……の子孫だ。それでもみんな信じたい、この街に江戸時代からの桃があると。
少しシャッターを覗いてみる。ここから光がこぼれるさまは、確かに絵になりそうだ。
わたしはカメラを構える。
カシャ、なかなか上手く撮れたように思う。そうだお爺さんも撮ってみようかしら。
「撮りましょうか」
「いや、こんな爺さん撮ってもおもしろくないだろう。そうだ、嬢ちゃん撮ってやろうかね」
「いえ、わたしはいいです」
わたしはひと息つこうとベンチに座って、ナップザックを広げる。
「さて、お昼にしよう」
おにぎりは二個、もう一つは……。
「ここ、いいかね?」
「いいですよ」
お爺さんはわたしの横に座るとものほしそうに言った。
「おいしそうなおにぎりだねぇ」
「あ、すいませんこれ、友達の分なんです」
「そうか」
どこか寂し気にしながらお爺さんは腰から革の袋を出して、そこから禁煙パイポを出した。
「ここは禁煙だったね」
「えぇ」
お城の公園はそれほど高さはないけれど、ここから少し見える街をお爺さんは愛おしそうに見つめて、それからこう言った。
「友達と待ち合わせかい?」
「あ、はい」
お爺さんは立つ気配はない、わたしはスマホの時計を見る、でも時間なんか決めていない。ただいつもなんとなくここに友達が、お昼過ぎだというのにろくに食べずに写真を撮りに来るのだ。
お爺さんはパイポをくゆりながらくつろいでいる。わたしはおにぎりを食べ終えてなんとなくスマホで色々、といって芸能ニュースを読んでいるのではなく、最近は教えてもらった故人についてと、その一生について、すこしだけある業界についても調べている。
はっきりとはしない、ぼやっとした。カン、だった、そのうちこれが必要になるみたいな。
「やぁ、今日も撮っているか」
友達が来た、ぶかっこうでマタギか山男みたいだとは本人談。くまみたいな身体で、ぬいぐるみのくまさんが大好き。
でもカメラへの情熱は誰にも負けない、わたしも負けないつもり。いつも同じ賞に出しているけれど、こないだは彼が少し腕を挙げたみたい、まぁすぐ追いつくけれど。
それならばさぞかし売れているカメラマンなのかと思いきや、いつもお腹を空かせている。
手料理をごちそうするのは別にいいけれど、それのお礼がカメラの指導ってほんとうにもう。
「えぇ」
彼はわたしの隣に座って言った。
「今日は何かな」
わたしは彼を軽くたしなめた。
「もう、すっかり当てにしちゃって」
「ごめんごめん」
いいながら彼は手の平を差し出す。
「今日は鮭のおにぎり、それから肉だんごと野菜の煮物よ」
「ほぉ、おいしそうだな」
お爺さんまで身を乗り出してきた。まあいいか。
「つまようじありますよ、食べますか」
「じゃ、一つ」
お爺さんは嬉しそうに肉団子を頬張っている。
「で、どうなったの、あの青年実業家」
落ち着くや否や、彼は言った。
「みんなわたしにおんなじことを聞くのね」
わたしはもうこの質問には驚かなくなっていた。
「まぁ、噂の的ではあるよね、こんな街にいきなり高級車で来て、いつも君を口説いていれば」
あぁ、もう、あの人のことよね。
「まったくね、君のどこがいいんだか」
桃花城公園で会うたびに思うけれど、彼はちょっとデリカシーがないのよね。写真はあんなに繊細なのに、と思いつつ。
「なによ、この美貌を見なさいよ。と、言いたいことだけれど。……まぁ若くて美しい人ならいくらでも近づいてくるだろうから、それ以外の何かじゃない」
わたしは軽くおどけて強く反論はしない。そうなのだ、実際わたしは、歩いていて声を掛けられたこともない。自分の市場価値なんて知らないし、考えたことがない。
「それ以外の何か、ねぇ」
「もういいじゃないの、わたしの気持ちは決まっているもの」
わたしは言った、あの人が気を引こうと言ってきたバックもアクセサリーも断った、誘われた音楽や劇にごちそうは、考えたけれど、断るともう行くきっかけもなさそうだから、一緒に行っている。
「プレゼントは断っているんだ?」
「だって欲しくないもの」
わたしはあっけらかんと言った。ブランドバックよりあのカメラが欲しい。 「でも一緒にどこかへは行っているんだ」
「あなたとだって、写真を撮りに、今日だってここへ来ているじゃない」
友達と今日はどこへ行った、それだけのこと。
「勘違いしないといいけれど」
「誰が?どんな?」
わたしはとぼけたふりをしているけれど、もう知っている。
「いっそ逃げたら?」
「どこへ?絶対探し出されるわよ」
なにそれ非現実的。
「でもこのままよりは……その……僕でよければ……」
「いいから、今日は撮りに来たんでしょう?」
ほんとうもう、みんなの言うことにはうんざりするったら。
結婚して養ってもらうつもりなの?断ってこそジリツしたオトナのオンナ、あなたには彼がいるでしょう、お金より愛よ、そんなのすぐ浮気するわよ、あなたに同情しているだけよ、エトセトラ、エトセトラ、ほんとうにもう、人の気も知らずにやんなっちゃうんだから。
チチチ、草原に雀が来た、わたしも彼もシャッターを構える。
お爺さんは雀が飛んでから、立ち上がって、また辺りを掃いた。
帰ってくつろいでいると母が言った。
「どうだい、あの人とは」
「どっちの」
わたしはあえてぼかす、親しくしている異性は二人いるはずだから。
「ほらあの、あれ」
あれじゃ誰かはわからないけれど、それよりわたしはスマホに夢中だった、イライラしていた、こんなことになってたなんて、なんで誰も教えてくれないの。
「もうすぐ話がでるんじゃない、結婚とか」
「そうかもね」
ほんとうにどっちからだ、多分彼もあの人もわたしの親しい人は知っている。両方、それが面白くないみたい……わたしの気持ちは決まっている。
この街でずっと彼と一緒にカメラを撮っていくか、ここを出てあの人と知らなかった世界へ行くか。
そんなの決まっているじゃない。
父は言った、お前の本当に好きな人はどっちなんだ。
そんなの今答えたら、お母さんの口からすぐ噂になっちゃう。
「そうだ、聞いたかい、お城の幽霊」
「幽霊?」
また?お母さんの噂話はあてにならないからなぁ……。
「郷土資料館から紋付の革袋がたまになくなるらしいのよ。永康公が愛用してたって、あの、ほら、お土産に出回っている」
「へぇ」
なんのことかわかるのは、郷土資料館に興味があるからではない、それが元になった桃の紋つきレプリカのお土産物なら飽きるほどこの街にあるからだ。 「ひょっとしたら出るのかねぇ、永康公が」
「まさか」
みんなに慕われた名君に、幽霊になって出るほどの心残り?ないない。
仕事帰りのある日、わたしは夕方の桃花城公園に立ち寄った。
ほんとうは五時以降閉めきりのはずだけれども、せめてとかけているチェーンも脚で跨げれば、見張りもいないし監視カメラもない。
この街の夜空は満天の星というほどではないけれども、今度夜に来たときにここから星を撮ったらどうかしら。
相棒を持ってきていないのだけが悔やまれる。
ちょっと性能に問題があるけれど、紫色に暗くなっていく空をスマホで撮っちゃおうかな。
「あれ、こんばんわ」
こないだと同じ桃の樹のところまで来たら、同じお爺さんに話しかけられた。 「こんばんわ、もうお仕事終わりですよね?」
「まぁな、もう終わってぶらぶらしているよ」
お爺さんはもう箒を持っていない。どっこいしょ、と椅子に腰を掛けて、わたしに隣に座るのを即した。
「雨も止んで、涼しくていい天気だねぇ」
「そうですよね」
なんとなく、話しだす。黙っているのも間が悪いし。
「……こないだの、彼氏かい?」
「友達です」
わたしははっきりと言った。告白されたわけではないのに、彼氏というのも変だ。
「そうかい。なぁお嬢ちゃん、この城は公園になって幸せだと思わないかね。みんなが来てくれて、笑顔があふれている」
お爺さんはしみじみと語った。よくわからないけれど、きっとお殿様のいた時代はこんなにひょいっと立ち寄れるものでもなかったのだろう。
「そうかもしれませんね」
「早くこうしていればよかったんだ、あんな広い寝室もいらぬというのに……」
酔っているのかしら?なんだかこのお爺さんすごくお金持ちみたいに話すけれど。わたしはあいまいに頷く。
「あんな夕餉など残すだけ……しかし、そうか、友達か」
お爺さんは話を戻す。
「で、何か悩んでいないかね?」
「え」
ふいをつかれて、わたしはちょっと驚く。
「夜ここに来る人はな、だいたい考えごとだ」
お爺さんは革袋からパイポを出して一服する、……あれ、桃の紋が飾られているけれど、きっとレプリカだろうな。
「……まぁ、悩みがないわけじゃないけれど」
わたしがこのお爺さんに話そうと思ったのは、色んな人からのアドバイスにうんざりしていたのもあった。
「わたしには二人の男友達がいるの。同じくらい大事な。……だけど、そのままじゃいられない。そのうちどちらかを選ばなきゃいけなくなる日が来る、きっと」
わたしは目を伏せた、二人の男性からの求愛。ロマンス小説みたいに、夢だけで出来ているわけじゃない。お爺さんにも誰にも相談できないことも、沢山ある。
「こないだの友達と、もう一人かね」
「うん」
わたしは頷く。
「……最も、わたしの中ではどうするのかはもう決まっているんです。本当にしょうがない人、わたしがいなきゃ。だからお手数かけるほどのことでもありませんよ。お爺さんは何か?」
人に話したからか少しすっきりした、ところがお爺さんはわたしの何気ない提案に、真剣そうに悩みだして、こう言ったのだ。
「お嬢ちゃん、ちょっと一人身の寂しい爺のわがままを聞いてくれないかね?」
そして、お爺さんとわたしは小さな約束をした、
「一人暮らしで手料理が恋しくてね、卵焼きを食べたいな」
そんなことなら、わたしは次の日夕方にさっそく卵焼きをおにぎりと一緒に持って行った。
「おぉ、これが卵焼き……ふんわりして、旨い旨い」
なんだか始めて食べるみたいにはしゃいで食べてる、面白いお爺さん。
お爺さんは全部食べてから言った。
「今度はいわしが食べたいな」
上機嫌で私にリクエストする。
「そんなものでいいのですか」
「何、そんなものだと?……いや食べたいんだ、お願いできるかね」
「はい」
わたしは快諾する。贅沢がしたいんじゃないんだ、とお爺さんは言った。 まぁいわし煮るだけだし、そのぐらいはね。
日曜日、連絡通り青年実業家のあの人が来た。彼はかなりのイケメンだ、得意げに自分で言わなければもっと。
「今日こそ話を聞いてもらうよ」
「えぇ」
そうだ、今日がその日だ、ずっとその大事な話はやんわりと避けてきたけれど、もう躱せない、いつまでもはっきりしないままこの関係が続くとは思えない。
高級車に乗ってお着替えして映画、有名な原作のある映画で、彼のその蘊蓄をわたしはしみじみと聞いた。 レストランではたわいのない話。 こんな風に遊ぶ女の子なんかいくらでも捕まえられそうだけど、何故かわたしを誘ってくる。
「また桃山城公園で友達に会ったの?」
「えぇ、写真を教わっているの」
そうか、と彼はトマトソースのかかった魚を口にする。
「お昼すぎってことは、何か食べているの?」
彼の声が少し苛立っているのがわかる。
「わたしのおにぎり」
わたしは少しわざとらしく言った。
「君のおにぎりが食べられるなんて、いいなぁ」
「言ってくれれば、いつでもごちそうするわよ」
もっといいものいくらでも食べられるはずなのに、彼が子供みたいなやきもちを焼くので、わたしは笑った。
夜、わたしたちはいつの間にか桃花城公園に来ていた。
「……えぇっと、その、君は、その」
「うん」
あの人は咳払いして言った。
「駄目だ!やっぱり緊張している、今日はやめようかな……」
「何か?」
彼は頭を抱えている。
「仕事の話なら絶対こんなことないんだ、遊びで知り合った女の子だったらもっときゃあきゃあって楽しませられるのに」
彼が華やかな暮らしをしているのは知っている、それにしても女の子と遊んでいるなんて、普通女性に自慢する?
「いやぁそのほら……君はいつまでこの街での暮らしを続ける気だ?」
彼は咳込んで言った、わたしは思った。この街の暮らしは嫌いではないけれど、きっとあの人の聞きたいのはそういうことじゃないんだ。
少し考えて、辺りを見渡す。 すると、いつも桃山城公園で会う彼がこちらに歩いてくるではないか。
「あっ」
「それは僕も知りたいな」
あぁそうか、ついにこの日が来たんだ、この二人のこうやって会う日が。 「じゃあ言うよ、僕と来ないか?」
「……なぁ、ずっと僕とここにいよう。ずっと」
求愛する二人の男性、わたしはどちらかを選ばなればいけない。 心臓が高鳴る。 このまま彼と桃花城公園のある街で平凡に暮らすか、あの人と少し遠くへ行くか。 答えは決まっている。
「もし」
その時、くらやみから聞き覚えのある声。
「はい」
わたしはふいに話しかけられて驚いた、暗くて気づかなかった……いつものお爺さんだ。
「どこかに行ってしまうのかね?その前にいわしが食べたいのだが」
お爺さんに脱力して、次の祝日にまたみんなでここで集まってわたしは答えを出すことになった。
鍋でいわしを煮ながら考える。 ずっと迷ってはいなかったけれど、わたしの選択はそれで本当にいいのか。 わたしの相棒、これからどれだけのお金になるのか、そもそもお金になるのかもわからない。 でもきっとこれからもずっと一緒だよ、だから頑張って、ね。
「いわし焦げないようにね」
「はい、行ってきます」
わたしは慌てていわしをタッパーに詰めて言った、今日が答えを出す日。
桃花山公園、今日はあいにくの天気で、朝から雨。
だからこそ植物はいきいきとしている、雨の日に写真を撮りに来たこともあったっけ。
ここは何年も変わっていないけれど、わたしは今のままではいられない。 「やぁ」
「……来たね」
永康公の好きだった桃のふもと、二人の男性。何故だかお爺さんもいる。 「はい、いわし」
「おぉ、すまんな」
まずはお爺さんにいわしを、お腹が空いたって引っ掻き回されても困るから。 「……で、答えを聞こうか」
「ずっとここにいるか、少し遠くへ行くかね」
わたしは覚悟を決めて、息を吸った。
その時、
「ごちそうさま、これで心残りが取れたよ」
「心残り?」
いわしを食べ終えたお爺さんがちょっと気になることを言いだした。
「ありがとうお嬢ちゃん、これで向こうへ行けるよ」
「そんないわしぐらいで、って?」
すると、お爺さんはみるみる姿が消えていって、それから江戸時代にいそうなお殿様の幻影がふっと現れて……消えた。お爺さんのいたところには永康公の革袋。
「……」
「……消えた?」
わたしたちは驚いて辺りを見回したけれど、どこにも姿が見当たらない。
桃山城公園の事務所で聞いたことは、ここにはお掃除の人は時々来ているけれど、お爺さんではない。
それでわたしたちはお爺さんの革袋を見せたの、そしたら歴史資料館に行ってみれば何かがわかるって。
行ってびっくりしたのは、お爺さんが永康公とそっくりだったこと。
卵焼きは江戸時代はぜいたく品で、いわしは上の人は食べられなかったこと。
革袋が、ときどきなくなる本物だったこと。
わたしたちは驚いたけれど……とにかく気を取り直して、再び永康公の桃のふもとへ向かった。
皆が息を飲む。
わたしはずっと考えていた、ずっとここで暮らすか、少し遠い所へ行くか。
でもたぶんどちらにいっても何かが違うわけではない。だから。
どこに行ってもわたしは相棒と生きていくだけだから。
「……で、決めたんだ?」
「僕とここにいるか」
「僕と来るか」
わたしは軽く頷く。
そして、青年実業家のあの人の手を取った。
「わたし行くわ、少し遠くへ。行って、色々なものを見たい」
ずっと決めていた答えを言う。桃の樹が風に揺れる、もうこの風に吹かれる日も少しね。
「僕は女々しいことは言わない、けれど、そこにカメラを入れようとしてどれだけの実力者が挫折したと思う?君のカメラが通じる世界じゃないかもしれないんだよ、それでも行くんだね」
ここで一緒だった彼は言った。
「そうね、わたしのカメラでは力及ばずかもしれないわ。それでも、そこにレンズが無いとあるのじゃ違うと思うの」
「そうか、じゃあ何も言わないよ」
公園の彼は黙り込んだ、実業家のあの人は少し緊張して言った。
「じゃあ、行こうか、まずは改めてご両親に挨拶をしないと」
「えぇ」
桃の樹はさわさわと風になびいて、なんだかまたそこにお爺さんがいる気がして、みんな笑った。
お元気ですか。
あれからわたしはあまりカメラに触らなくなりました。
彼を支えるためにも勉強勉強、特に贅沢はしてません。
贅沢がしたいんじゃない、なんてあのお爺さんみたいですね。
それでもたまにとっときの一枚を撮ることがあって、こないだはそれで小さな賞をいただきました。
つがいの鴨です。写真をお送りします。それでは。
わたしは桃山城公園の彼にそんな手紙を送った。後日届いた彼からの返事に、わたしは笑った。
そっちこそ高いものばかり食べて身体壊してないか。
カメラ少し休んでるって……まぁクオリティがその分よくなればいいんじゃないか。
こう、どうでもいいのばっか沢山撮るよりは。
そうだ聞いてくれ、あのお爺さんのことなんだ。
てっきりいわし食べて成仏したと思ってたのに、こないだ桃山城公園に行ったら「おお!」だって! 「あの世への行列で聞いたが、なんでもまだ食べたことがない旨い物が沢山あるそうじゃないか、まだ心残りで当分あちらには行けん」だ、そうで、おかげで僕が今度からお爺さんのリクエストに応えることになったんだよ。
こないだはタピオカミルクティーだって、ありゃ、当分向こうへは行かないな。じゃあ。
彼の送って来た写真には彼と宙に浮くタピオカミルクティー、桃山城公園に出る幽霊の噂は、当分収まりそうにない。
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