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 ちらりと見えた限りで隣に一つ、廊下を挟んで二つのドア、そして藤丸の指差す方向に階段の手すりが見える。よく磨かれた、つやのある木製の手すりだ。 「ここ、何?」  自分たちを階下に導くのは、見事な螺旋階段だった。 「アパートですって。んー、なんか、その昔は金持ちの大学生とか芸術家とか、そういう系の下宿だったみたいですけど。誰も元々は何の建物だったのか知らないんですよねえ」  ローファーの踵が、カツ、と重厚な階段に思ったより大きく響く。 「ここ風呂共同だし、壁の塗り直しとか草刈りとか大掃除とかイベント盛りだくさんだし、何かにつけて呑み会開きたがるし、町内会並みに行事多いよ。ののめ先生、そういうの苦手そう」 「ご明察」  日常の動作に感動などあるはずもない藤丸は、スニーカーの底を鳴らしながらリズム良く下りていく。一階から天井まで続く吹き抜けには大きな窓があり、いよいよ高くなった日差しがたっぷりと射し込んでくるのに、思い出したように二日酔に見舞われた気がして崇はこめかみを軽く押さえた。  螺旋階段を下りきると玄関ホールがあり、やはりたっぷりと光を取り込む大きな扉が、逆光を受けて黒く浮かび上がっている。 「このへん、俺が塗ったとこ」 「へえ」  漆喰か土壁か、懐古的な趣きの壁によく目を凝らしてみれば、確かに塗り方の拙い部分があるような気もする。彼にとって楽しい記憶なのだろうことは、横顔を見れば一目瞭然だった。 「ののめ先生、こっち、ここでちょっとだけ待ってて?」  正面玄関ではなく、館内へ続くと思われる方へ手招きされ、少し怯む。 「なに」 「座って待ってて、すぐ戻るから」  ホールから廊下へ入ってすぐ、やや奥まったスペースには、テーブルやソファがしつらえられていた。共有スペースというやつだろう、アンティーク調に統一されたそこはサロンと表現したくなる風情だ。手前にあった一人掛けのソファに腰掛けた時、 「ねー」  第三者の声がした。 「なんでヒゲって生えるのかな」 「わかるー。カネザキさんおはよ、これから出勤?」 「そう、これから」  藤丸の背中越しに、今度は鮮やかな金髪が見える。 「カネザキさん、ちーちゃん見た?」 「見てない。あ、廊下の電気、ありがとって言っといて」 「自分で言えばいいのに」 「会えない場合の保険かけたの。きみは保険くん」  ちらり、とこちらへ目線をくれて、たぶん会釈したのだと思う。ので、こちらも会釈を返す。全体的に風呂上りの出で立ちの男は、じゃあ、と藤丸へ手を振って去って行った。風呂上りでこれから出勤ということは、堅気のサラリーマンの線は薄い。金髪だし。などと他人のことを詮索できた義理ではない。朝のゴミ出しくらいでしか顔を合わせないマンションの住人の間では、自分とてさぞ不審に思われていることだろう。 「ちーちゃーん」  と呼びかけながら、藤丸が廊下の奥へ消える。 「駅の方まで行くけど、なんか買うものある?」  しばらくして、二言三言、くぐもった人の声。遠のいた足音はすぐに戻ってきて、そのままひょっこり顔を出すと見せかけ、フェイントで引っ込む。 「あ、コーヒー豆は?――うん、電話しといてよ」  今度こそひょっこりと現れて、にぱっと笑う。 「お待たせしました」 「ん」 「カネザキさんはバーテンで、ちーちゃんは管理人さん」 「へえ」  三十年と少し、顔には出ないほうだと思っていたし思われていたのだが。自信がなくなりそうだ。  正面玄関の扉の向こう、外は良く晴れていた。立ち止まって振り返り、建物を仰ぐ。建てられたのは戦前と言っていたろうか、想像以上に古めかしく、洋館と呼ぶにふさわしい外観だ。新築の純白には敵うべくもないが、何十年もの間、修繕と維持に努めてきたのがわかる外壁の白。敷地を囲う低木、整った花壇、刈り込まれた芝生、小さな菜園まであり、そのどれもがやはり一見して丁寧にメンテナンスされているのがわかる。敷地の外に見慣れた駐車禁止の標識がなければ、ここが現代日本かどうかすら疑いたくなるような空間だった。いや、もう一つ、ここを現代日本たらしめるものがある。 「藤丸くん、あれ」 「あ、可愛いでしょ?自信作」 「可愛いけど」  菜園の隅に立てられた看板には、緑の髪のやや垂れ目の美少女が描かれている。軽くねめつける表情で、吹き出しには「まだダメだよ」の文字。 「グリーンボイスちゃん。茎ブロッコリーなんだけど、まだ収穫には早いんだって。俺は食べる専門だけど、たまには貢献しないとねー」  内容はともかく、見た目は商業ポスターのクオリティーだ。 「へえ……あ、紫陽花」  今度は花壇の一角に、知っている植物があっただけのこと。 「うん。俺も好き」  嬉しそうに頷かれて、思考回路を経由した言葉でないことを告白するタイミングを失う。 「咲くのは梅雨の時期だけど。あ、来月くらいには薔薇も咲くよ」  そう、と、口の中で呟いた返事は、カタン、聞き覚えのある音に消される。それから、ブロロロ、と同じく聞き覚えのある音。郵便を残して、赤い原付バイクが走り去るところだった。ポストまでぬかりなくアンティークなのかと感心しつつ、何気なく見やり、知ることとなる。プレートに刻まれた、この洋館の名はメゾン・ド・ネージュというらしい。 「雪の館っていうのか。白いから?」 「すっげー」 「え、なに」 「ののめ先生、フランス語わかるの?」 「わかるわけないでしょ」 「だって、メゾン・ド・ネージュってフランス語だよ」 「ああ、うん、それくらいはね」  翻訳業で報酬を得ている兄ではない。メゾンは建物、ネージュは雪、知っているのはその程度だ。すげー、と再び称賛され、逃げるように敷地を出たが、さて右へ行くべきか左へ行くべきか、そう言えばそれすらわからないのだった。
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