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電車に乗って一時間と少し。この小さな駅のホームに立つのは二度目だ。改札を出て、タクシー乗り場に向かう。
「メゾン・ド・ネージュまで」
この合言葉が通じなかった場合のことは考えていなかった。不思議そうに聞き返されたので、真っ白な洋館のことだと告げると、運転手は得心したように頷いてタクシーを発進させた。
ワンメーターと少しで到着し、二千円で釣りをもらってタクシーを降りる。白い洋館は、記憶の中のそれよりずっとノスタルジックな佇まいだった。門扉をくぐり、正面玄関の前で少し思案してからチャイムを押す。古めかしいブザーの音が響いたが、応答はなく、ずいぶん待ってから扉が開く。
「すみません、お待たせしました」
中から出てきたのは、美しい男だった。
ほっそりとした身体つき、年の頃は同じくらいだろうか。背丈も同じくらい。少し長い前髪を片耳にかけながら、どこか気だるげに首を傾げる仕草は、幽玄さすら感じさせる。その浮世離れした雰囲気の理由は、すぐに知ることになった。不意にぐらついた彼がこちらに倒れてくるので、慌ててその細い腕を掴んで支える。彼の肌はひどくひんやりしていた。
「大丈夫ですか?」
「……すみません、大丈夫です」
「いやいや」
大丈夫なはずはない。声は弱々しく、顔色は蒼白で、唇にも血色がない。徐々にぐったりしていく身体を支える手に力を込めると、屋内から声が響いた。
「ちーちゃん?」
声の主の姿が、ややあって視界に入ってくる。片方の手をゆるいスウェットのポケットに突っ込み、もう片方の手で絵筆の髪をかき上げながら近づいてくる、すらりと背の高い男。少し切れ上がった目を大きく見開いて、素っ頓狂な声を上げた。
「えっ、ののめ先生?なんで?」
「それより」
「あ、ごめん、びっくりしたでしょ」
藤丸は事もなげに笑うと、崇の腕の中から彼を引き取る。
「幸貴、ごめん……」
「ちーちゃんってば、また無理して」
「救急車呼ぶ?」
「ううん、平気平気」
もう一度崇に笑いかけ、手慣れた動作で彼に肩を貸しながら、
「歩けそう?」
と顔を覗き込む。彼は小さく何か言ったのかもしれない、藤丸がそれに頷いた。
「ののめ先生、ちょっと待ってて。ちーちゃん置いてくる」
「いいよ、帰る」
「待って」
「いいから、早くしてあげて」
困惑したようにこちらを見る藤丸を、しっ、手で追い払う。
それでもなお逡巡しているようだったが、すぐに思い直したのだろう、彼を抱えて廊下の奥に消えていった。
広い通りに出るまでの道は、なんとなく憶えている気がする。そこからはタクシーを拾えばいいだろう。とんぼ返りとはこのことだなと思いながら、昼下がりの静かな路地を歩き出すと、背後から強引に手を引かれた。
「そっちじゃないって」
「そう?」
「そうだよ、もう」
走ってきたんだろう。らしくもなく肩で息をしている。ぼさぼさの髪、見るからに余所行きでない服、おまけに足元は履き潰したサンダル。あれほど自分を幻惑した男の、この姿。意外なほど満足感がある。
「ねえ、なんで来てくれたの?」
「紫陽花、見に来いって言われたから」
「じゃあ、なんで帰っちゃうの?」
痛いくらいに手を握っておいて、置いて行かれそうな子犬みたいなことを言う。
「むっとしたから」
それだけ答えると、藤丸はやはり目を見開き、それからぱちぱちと瞬いた。
「……え、待って、ちーちゃん?管理人さんだよ?」
「そう言ってたね」
「てか、身内、身内だよ?俺の叔父さん。父親の年の離れた弟。俺、子供の時じーちゃんばーちゃんの家に預けられてることが多くて、ちーちゃんとは兄弟みたいな感じなの」
「なるほど」
顔立ちを比べられるほどまじまじと見たわけではなかったが、どうやら美形の家系らしいことはわかる。
「誤解、とけた?」
「してないよ、最初から」
「だって、だったら」
「それでも、だよ」
掴まれた手を解くと、不満そうに、そして不安そうに、口をへの字に結ぶから。思わず、ふっと笑ってしまった。それから、手を伸ばして、そのへの字を指でなぞる――あの晩、彼がそうしたように。
光を湛えた暗い色の瞳が、零れ落ちてしまいそうだ。
「もう少し待ってて」
短いフレーズに込めた意味は通じたのか、通じていないのか。藤丸は口元を押さえてじっと崇を見つめるだけで、答えない。
「あっち?」
この方向ではないということは、反対なのだろう。つまり右か左かの二択を間違えたわけだが、崇の指さす先を見てぼんやりと頷いた藤丸は、やはりぼんやりと、うわ言のように言うのだ。
「あ、送る……」
「いいよ」
片手を挙げて、立ち尽くす男の横をすり抜ける。もう一度手を引かれることはない。それがどんなに心地よいか、彼は知らないのかもしれない。
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