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 思い出してみると、今朝というには遅い起床だったが、起きてから何も食べていない。それ自体は珍しくなく、すきっ腹にビールが染みるのもいつものことだったが、飲み慣れた銘柄でないせいかいつもより強烈に感じる。 「フジマルくんは、本名?」 「はい。藤原の藤に丸で藤丸、んで、幸せに貴いで、幸貴(ゆき)」 「今日会うまで、女性かもって思ってた」  フォントの組み合わせで構成された人格しか知らなかった。モノトーンの風変わりな服を身に纏い、絵具をすくったような髪をした男を目の前にしてやっと、先入観に出会った感じ。クリエイターがアバンギャルドな姿をしていなければならない決まりはないが、それで言えば彼はむしろ外見と中身のギャップが小さい。ビビッドで挑発的、それでいて端整なのは、その手による絵だけではないらしい。 「わは。あ、でも俺も、いっちばん最初はののめ先生のこと女の人だと思ってました。本名だったりしないですよね?」 「ほぼ本名」 「まじで?」 「東雲崇だからね」 「どういう字?」  東雲崇、と、細かい部分は口で説明しつつ、テーブルクロスの上に指で書く。  しののめたかし→たかししののめ→高獅子ののめ、の展開作業を行っていたのだろう。しばらくして、 「おおー」  愉快そうに笑うので、種明かしをした甲斐もあろうというものだった。  指揮棒を振るように、すい、とフォークを動かして、藤丸がローストビーフをさらう。一口目で噛みちぎり、二口目で押し込むと、もぐもぐと咀嚼。なるほどまだ肉が一番うまい年頃か、と感心しつつ、崇はブロッコリーにフォークを突き立てた。 「昔は、こういうとこほとんど出てこなかったって聞きましたよ」 「ん、そうかも」 「なんで来るようになったんですか?」 「そんなこと気になるの」 「気になるっていうか。ののめ先生が昔のままのレアキャラだったら、いくら同じレーベルでデビューしてもこんなとこで会えなかったなあって思って。サイン会くらいじゃないすか、しかもそれだってレアだし」 「サイン会か、懐かしい」 「空コズの5.5巻買って、並んだもん」 「そうなの?」 「俺がまだ大学生の時でした」 「俺もまだ二十代だったよ」  集団に混じるのも、集団の前に立つのも、どちらも不得意だとその頃にはじゅうぶん気付いていた。 「なんで今まで来なかったんですか?」 「面倒だったから」 「うわー。じゃ、来るようになったのは、なんで?」 「縁というのも馬鹿にできないと言われ、そんなことわかってると答えたら、じゃあ行ってこいと」 「正論ですね」 「ん、だからここにいる」  言った方は忘れているだろうが、言われた方はいつまでも憶えているものだ。世界地図を広げて知り合いの居場所に点を打ち、それを繋げばほとんど地球を覆うようになる兄と違い、日本列島の数カ所に点を打てば終わる自分。日本の片隅に留まっているのが何かの間違いではないかと、兄が定住して三年ほど経ってもいまだに思うことがある。 「縁って、できるものだと思います?作るものだと思います?」 「勝手にできるのが理想」 「ののめ先生のことわかってきましたよ。俺、思うんですけど」 「ん」 「なんか、科学の法則の、質量保存?わかんないけど、とにかく、そういう感じで。勝手に縁ができた人の反対側には、それを作った人がいると思うんですよね。あ、日本には下り坂と上り坂のどっちか多いでしょう、みたいな感じっす」 「言いたいことはなんとなくわかる」 「つまり、ののめ先生は知らず知らず、俺との縁ができたってことです。俺のアタックが功を奏して」 「ああ、うん、そういうことか」 「やったね」  無邪気に笑うと、彼はまたローストビーフを二口で頬張り、ぐびりとビールを煽った。
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