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藤丸という男はまるで誘蛾灯のようで、その明りに惹かれて次々に人が寄ってきた。漫画家、小説家、編集者、彼らが同伴する同業者、はたまた異業種の人々。名刺を持たない自分は受け取る一方で、気付けばその厚みは定規で測りたくなるほどになった。
数本の瓶ビールが空き、ワインボトルやキャラフェに入った日本酒がいつの間にか置かれ、会話に加わるのも面倒になってくるといよいよ呑むに徹することになる。するとまた一人、瓶ビール片手に近づいてくるのが見えた。
「僕から紹介しようと思ってたんですけど、もう必要ないですよね」
知る範囲でも十人以上の作家を担当している彼だ、一人一人に挨拶するだけでパーティーは終わるだろう。湧田がほろ酔いの笑顔でビールの口を向けるので、手近にあったグラスで応える。
「あ、それ俺のです」
「そうだっけ」
「キス、間接キス」
「うるさい」
「はは、すっかり打ち解けてる。フジマルくん、ののめ先生に会いたい会いたいってずっと言ってて、いつかセッティングしたいなあとは思ってたんですけど、なかなかスケジュールが……」
「この中だと湧田さんが一番忙しいからね」
「いやあ、僕が至らないだけです」
「だいじょぶだよ湧田さん、俺が至ったから」
「――こんなんですけど、いい子なんですよ、いや、いい子だと思いますよ」
「えー、なんで言い直したんすか」
「色んな噂、聞こえてくるからねえ」
「ただの噂だもん」
頬を膨らませて、その拗ねた唇にグラスを押し当てる。どうやらワイン党らしい。
「彼、こないだのイラスト大賞の受賞者なんですけどね」
「ん、知ってる」
「応募の課題作が、空コズだったんですよ」
「へえ」
驚いて藤丸を見上げたのだが。こちらを見下ろしてくる彼もまた、驚いている。
「あれ、知ってると思ってました」
「今知った」
イラスト大賞の課題作に自分の作品が入っているのは知っていたが、審査員でもないのに応募作を目にする機会はない。知りうる情報は読者と同じか、ページの隅々まで熱心に目を通すことがない分下回る。
「誌面でクローズアップされたのは、自由課題のほうですしね」
「俺は空コズに一番力入れました」
「いいよ、そういうのは」
「ほんとですよお」
左の耳元で喚かれる。酔っているのだろう。その藤丸の頬を必要以上にぐいぐいと押し返している自分も多分酔っているし、それを見てなぜか爆笑している湧田も、ずいぶん酔っていた。
ややあってふと会話が途切れたタイミングで、ちょっと、とジェスチャーとともに言い置いて湧田がテーブルを離れる。
「藤丸くんは?いいの?」
ピースサインを口元に近づける、喫煙の合図。横目で湧田を見送っていた藤丸が、やはり同じように長い指でピースサインを作り、口元に近づけて笑った。
「俺、吸わないんで」
「あれ、吸ってなかったっけ」
「――ああ。喋ってただけです。喫煙所の世間話って、なーんか、面白いんすよね」
「へえ」
そんな動機があるのか。喫煙所だからといって、煙草を吸わなければならないわけではないのかもしれないが、用もないのに行くような所でないのも事実だろう。確かに彼は至る側、坂を上る側かもしれない。
「ののめ先生?」
「トイレ」
急に催したのだから仕方ない。ピースではなく片手を上げて、崇もテーブルを離れた。
重厚な扉を押し開け、背後でそれが閉まると、喧騒の封じ込められた廊下は静寂にすら感じる。
「あ、高獅子さん」
白を基調とした明るく広いトイレに、声が響く。仕切り越しに声をかけてきたのは同年代の作家で、まさにこんな機会でもなければ会わない間柄の人物だ。
「ども」
「どうもです。絡まれてますね、彼に」
「ん?」
「フジマルユキ」
「ああ、まあ、絡まれてるというか」
「気を付けたほうがいいですよ」
「気を付ける」
「ええ。アマチュアの頃から、若いオタク系のコミュでは有名だったらしいですよ。近寄ってくるファン、手当たり次第だって。同人CDサークルにいた頃、出演した自称声優の子全員と修羅場ったとかなんとかで炎上してたり。コスプレイヤーとカメラマンのただれた噂はしょっちゅう聞きますけど、一括りにオタクって言っても、あるところにはあるんですよね」
湧田の含み笑いの理由が、こんなところ(男子トイレ)で判明するとは。
「詳しいですね」
「俺なんかは、半分同人作家ですから。コミケで色々見てますし」
「へえ」
「リアルBL路線か?とか思っちゃいましたよ」
「絵的に難しいと思われ」
「そんなことないでしょ、腐女子歓喜ってやつで……ってフォローするとこでもないか」
相変わらずのマシンガントークに気圧されている内に、彼は言うだけ言ったらしく、満足げな顔で去って行った。
遅れて洗面台へ戻ったが、トイレは既に自分の他にいない。
冷たい水で手を洗うついでに、眼鏡を外し、顔も洗う。思ったより酔いが回っているらしい。もっと徐々に酔えればいいと思うのに、いつも、ふとした瞬間に急に足元がおぼつかなくなる。一時の昂揚感と、遅くとも翌朝には訪れる何らかの後悔を天秤にかければ、きっと後者のほうが重いのに、それでも酒はやめられない。兄の店でもあるまいし、こんなところで腰砕けになるわけにもいかない。
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