1

1/2
402人が本棚に入れています
本棚に追加
/39ページ

1

 生温い水の中を浮遊しながら、水面の音を遠くで聞いているような気分だった。水中の住人には関係のない、外界の喧騒。もうどれくらい鳴っているのだろう、やがてそれが電話の音であること、そして自分が水中の生物などではないことに気付き始める。  睡眠から覚醒への不愉快なグラデーションに応じて、徐々に大きくなる電子音。  重い身体を起こし、ふらつきながら部屋を出る。  オレンジのランプを点滅させながらけたたましく鳴る、白い受話器に手を伸ばした。 「……まだできてません」  寝起きの声はひどく擦れている。  向こう側で、明るい失笑が弾けた。 「――残念ながらというべきか、今日は別件です」 「あれ」 「ていうか、第一声からそれで、僕からの電話じゃなかったらどうするんです」 「……ん、大丈夫」  ネットとFAXのために残してあるような固定電話だ。ナンバーディスプレイの契約もしていないが、そんなものを見なくても、セールスを除けば電話の主などほぼ二人に絞られる。一人は兄、もう一人が彼だ。 「何が大丈夫なんですかぁ」  もう一度、明るい失笑が弾ける。独特の人当たりの良い印象の笑顔が見えるようだった。 「あ、そうそう、それで、用件なんですけどね」  こちらの沈黙など気にも留めないテンションとテンポ。デビューからずっと面倒を看てくれた人物が編集長に昇格し、湧田(わきた)が二代目担当となってから二、三年経ったか。あしらい方にもずいぶん慣れたものだなと、あしらわれる側として感慨深くなる。 「ののめ先生、明日は大丈夫ですよね?」 「……明日って、なんだっけ」 「その反応は想定内です」  湧田の、やはり明るいため息を聞きながら、卓上カレンダーに手を伸ばす。が、鼻先まで近づけて目を凝らしてもぼやけて判然としない程度には近眼だ。元来た経路を戻り、手探りで眼鏡を探す。霧が晴れたように、と言うより、すりガラスが外れたように、と言ったほうが体感に近い。クリアになった視界、はっきり読み取れるマス目の配列を縦横になぞっても、特別な書き込みは見当たらない。 「何にも書いてないな」 「いやいや、電話口でしたけど、何度も念押したじゃないですか」 「湧田さんが言うならそうなんだろうけど、今月はこれといった予定はないっぽい」 「そんなはず――あ、ののめ先生、カレンダー何月ですか?」 「三月」 「残念、今月は四月です」 「またまた、ご冗談を」 「こっちの台詞ですよ。もう一週間ほど前から四月ですって、めくってみてください」  湧田に促され、つやのある少し厚手の紙を一枚めくる。第二木曜日に赤いボールペンで丸印があり、 「品川、18:00」  とだけ書き込んであった。 「思い出しました?」 「思い出したというほどではないけど。懇親会だったね、そういえば」  まだまだ先だと思っていた予定が、明日に迫っていたらしい。  曜日も曖昧な変わらぬ日々を送っている間に、月が変わり、いくらかの割合の人々は入学だったり就職だったりという人生における大きなイベントを済ませていたということか。ほんの少しの驚きはしかし欠伸とともに身体から抜けていき、目覚め方こそ気持ち良いものではなかったがそもそも寝起きはすこぶる悪い体質だし、それを差し引いても熟睡後の充足感があることに気付く。  いつ寝て、どれくらい寝て、そして今は何時なのだろう。ベランダのガラス戸からは陽射しが差し込み、リビングいっぱいに満ちている。 「先生、聞いてます?」 「ごめん、聞いてなかった。あと先生はやめて」 高獅子 ののめ(たかしし ののめ)は、日本の小説家。代表作に「空のコズミックイマジン」シリーズがある。  ウィキペディアはこの一文から始まる。  いわゆる職業作家である。新卒で数年間は会社員などしていたものの、ドロップアウトして久しい。執筆ジャンルはもっぱら、いわゆるライトノベル。ペンネームは本名のアナグラム、というほどでもなく、姓名を入れ替えただけのもの。作家としては若手と中堅の間くらいの位置付けで、人気のほどは、「高獅子ののめの小説が読めるのは、ザ・トレッキングだけ!」と掲載誌の表紙で煽られる程度。政治家でもあるまいに周囲からは先生と呼ばれ、慢性的な肩こりと腰痛を患いながら、虚構の世界を構築してはたまに壊したりしている。
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!