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「……眼鏡あるかな」
「目、そんなに悪いんですか?」
「悪い。きみの顔もわからない」
「藤丸です」
「それはわかる」
「わー、冗談だったんだけど」
「それもわかる。で、眼鏡」
色彩がまた、大きくうごめく。
毛布がめくれて落ちたのだろう気配と、衣擦れの音。それから――
「うっわ、きっつ、くらくらする」
何をしているのか、見るまでもない。
「ん」
はしゃいだ声の方へ突き出した手のひらの上に、欠けていた身体の一部が返還された。
眼鏡をかけるとようやく、色彩は輪郭を持ち、情報となって脳へ届く。カーテンで遮られた青白い空間は、簡素なビジネスホテルなどではなかった。ペンキの塗りむらのある壁、年季の入った黒ずんだ床板、壁一面の大きな窓の他に、藤丸の頬あたりに落ちた格子状のシルエットをたどると天窓に気付く。造りの凝った、古い家だ。
「ここ」
「俺ん家です」
「立派な家だね」
「や、アパートですよ。戦前か戦後か、なんか、それくらいからあるちょー古い建物で。水飲みます?あ、コーヒーもあるよ、インスタントだけど」
「コーヒー」
はあい、と言いながら藤丸がベッドを下りる。Tシャツにスウェットでも見栄えの良い後ろ姿が、仕切りカーテンの向こうに消えていく。ここが彼の一人暮らしの部屋だとすれば、自分が今いるのはベッドの上しかないだろうことは、薄々気が付いてはいた。鼻をかすめた少しけぶった匂いは布団にも染みついているようで、彼が離れても残り続けている。
「てか」
チチチ、コンロに火が付く音に混じって、笑い声が聞こえる。
「ちょっとは驚くとかさ」
「すごく驚いてる」
「じゃあ、もっと顔に出してくださいよ。一夜の過ちがあったかもしれないのに」
電車で泥酔し、ここまで運び込まれたのだろうことは既に明白。頼れる記憶など皆無のこの状況で、さて、と身体に残る感覚を問うてみても、気だるさの理由を問い返されるだけ。空白の一夜に、どんな物語を与えるべきだろう。
「あったのか……?」
崇の独り言を拾い、ひょっこりと藤丸が顔を出す。
「あったって言ったら信じます?」
「信じるって言ったらどうなる?」
「どうする?じゃないんだ」
愉快そうに歯を見せた彼は、ややあってペットボトル片手に戻ってくると、ベッドではなくすぐ脇のソファーに腰掛けた。調度品と呼ぶにふさわしい風合いの、木製のソファだ。長い脚を投げ出し、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む。その綺麗な横顔を何とはなしに眺めていると、彼もまたふとこちらに目線を寄越し、目だけで笑った。
「迷惑かけたね」
「全然。せんせ、ぐっすりっていうかぐったり寝てただけだもん」
それが答えだった。現実はそうドラマチックではない。そのことに失望することもあれば、安堵することもある。
「それはそれで、迷惑だろう」
「俺もいつも通り風呂入って寝ただけたし」
「この服とか」
「俺のお気に入りです、似合ってますよ。せいいっぱいのおもてなし」
「いやそういう……」
着ていたはずのジャケットとワイシャツは、水色のTシャツに変わっている。コットンのズボンも同様にスウェットに変わっていて、デザインといいサイズといいさぞや自分には似合っていないだろうなと思う。触れたかったのは、状況的に協力的だったとは考えられない、この服を着させられるまでの過程についてだったのだが。
「まあいいけど」
「あ、なんで諦めたんすか」
「ん、ありがと」
言うやいなや、にぱっと笑顔になる。通じているのかいないのか。食い下がるのも妙な気がして、なんとなく、気に入りだと言ったTシャツの襟首を引っ張ってみる。
「――あ、風呂入ります?うち、昔の名残りとかで風呂だけいまだに共同なんですよね。この時間ならちょうど隙間だから、ゆっくり使えるよ」
「いや、いいよ」
「遠慮しなくていいのに」
「じゃ、コーヒー早く」
「それは、やかんに言ってください」
と言いながらも、ソファを立つ。セットされていない髪を無造作にかき上げると、銀でもアイスグリーンでもない地毛の黒がほんの数ミリ覗くのが却って不思議なくらい。耳の形まで整っているらしい、そこを飾っていたいくつかのピアスも今は見当たらない。
「ののめ先生って」
「ん」
「人の顔見すぎって言われません?」
「そうかな」
「すっごい見てくる」
「慣れてるでしょ」
「うーん、まあ。ののめ先生は、つむじの形きれいですよね。あと、奥二重の中と唇に、薄いほくろが隠れてます。右手の小指だけちょっと曲がり具合が違うのって、昔の怪我とか?」
「……ごめん気をつける」
「あ、なんでちょっと引くんすかあ」
どれも他人に指摘されたのは初めてだ。右手の小指は、まだ小学校に上がる前だったか、突き指が原因で以来確かに少し曲がっている。ほくろの目立つ顔ではないはずだし、つむじに関しては今まで考えたこともなかった。
シュンシュンとやかんが音を立て始める。
藤丸が再び仕切りカーテンの向こうに消え、しばらくすると、芳ばしい香りが漂ってきた。
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