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山の中腹に差し掛かった頃、朱巳が目をこすりながら歩いていると、ふと奇妙な風体のシルエットが山道を下った先にあることに気が付きました。最初は人かと思いましたが、肌の色が見えませんし、妙にずんぐりむっくりとしていて、頭の辺りが、薄く平べったいもので覆われているようでした。
だんだん近づいていくと、それが自分と同じくらいの背の高さのお地蔵さまだということに、気付きました。この道に、お地蔵さまが居たはずはありませんが、確かに道すがらに立っておられます。石で造られたお地蔵さまは柔和な表情を携えて、朱巳を見つめておられました。しかし、ただ一点、お地蔵さまはある特徴を携えておられました。それは、さっき朱巳が遠くから見た時に黒っぽく見えた平べったいものです。お地蔵さまは、頭に傘を被っておられました。笠地蔵という民話を、朱巳は学校で習った覚えがありますが、あのような唐笠ではありません。ポリエステルの黒いカバーと、外身しか見えませんが、金属による骨組みもある、私たちがよく使っているような傘が持ち手の部分だけ削がれて、すっぽりとお地蔵さまの頭に被さっているようなのです。そのあまりに珍妙な様相のお地蔵さまに、朱巳は、先刻までの心の荒れ模様も忘れて、しばし見入りました。すると、
「童よ」
なんと固い石造りの唇を動かし、お地蔵さまが語り掛けてきたのです。あまりの出来事に、朱巳は腰を抜かして、その場に尻もちをついてしまいました。
「怖がらなくていい。りっぱな下服が汚れてしまう。落ち着いて、鳩尾のところから深く息を吸って吐きなさい。そうしたら、ゆっくりとお立ちなさい」
お地蔵さまは、優しく朱巳を諭します。そのお声は、陽だまりのように朱巳を包み込み、警戒や恐怖をあっという間に紐解きました。朱巳は、言われたように立ち上がって、しっかりと深呼吸をしました。
「よしよし、偉い子だ。こちらをみなさい。いい目だ。水晶のように透き通っている。だが、今その奥に水面に墨汁を垂らしたような陰りが見える。辛いこと、悲しいことがあったんだね」
朱巳は、また大粒の涙が頬を伝うのを感じました。しかし、それはそっと心を掬い上げてくれるようなお地蔵さまの確かな優しさを感じ取ったからでした。
朱巳は、親にも話していない学校でクラスメイトから受けている仕打ちを打ち明けました。たどたどしく、話が飛び飛びで分かりにくいだろうなあと焦ってしまいましたが、お地蔵さまはその度に、安心してゆっくりと話しなさいと言ってくださいました。
一通り話し終わった後、そういえば置き去りにしていったクラスメイトが追い付いてきてやしないかと後ろを振り返りましたが、誰も来ていませんでした。それどころか、このくらいの時間になるとすれ違うはずの近所の人達の来る気配もありませんでした。
「安心おし。しばらくこの道には誰も来ない。誰も気付かない」
お地蔵さまは、そう言った後、しばし首を傾げ、考えるような仕草をしました。
「この傘をあげよう」
お地蔵さまが言った瞬間、朱巳の右手にコツンと何かが当たる気配がしました。目をやりますと、それは、透明のビニール傘でした。それは、お地蔵さまの頭の傘と同じように一般的で何の変哲もない傘のように見えました。
朱巳がお地蔵さまの方へ向き直ると、なんとお地蔵さまの姿は忽然と消えていました。あたりをぐるりと見回しても、まったく見つけることは叶いませんでした。
「道ももう元に戻ってしまう。私程度の力では、それっぽっちの物しか与えてあげることが出来ない。ただしい心構えを持って、使いなさい」
お地蔵さまの声は、透き通るように、消え入るように小さくなっていき、もうそれ以上の言葉が聞こえることはありませんでした。
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