ギフト

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 目の前に広がるぼんやりとしたいつもの帰り道は、ゆっくりとまどろみながら溶けていった。目の奥がカッと熱くなり、頬を温かい涙が伝う。その頬に冷たく、今にも消えそうな粉雪が張り付いて、そしてゆっくりと溶けていった。  俺はその場に膝をついた。ズボンの下から水が浸み込んできて、緩やかに体温を奪ってゆく。  今日は朝から仕事だった。一日中ずっと悩み、結局何もできないまま、気づけば最後まで残業していた。何か仕事が進んだわけでもなかった。そして、それは何の前振れもなく現れた。会社を出て駅に向かおうとしたとき、狂おしいほど懐かしい声が聞こえた。シュウトだ。 「父さん」  そう呼ぶ声に、俺は必死で答えた。涙腺を押さえながら、それでもシュウトをきつく抱きしめた。駅まで歩きながら、シュウトとはいろんな話をした。その一つひとつが、もうすぐ傍まで迫っていた別れの予感をゆっくりと温めていき、本当に心から嬉しいことのようであり、同じくらい悲しくて寂しいものだった。だから、俺はそんな全てを込めて、シュウトを抱きしめた。  シュウトはこの寒い中、かれこれ二時間以上、会社の前で出待ちをしてくれていたらしい。そう考えただけで心が痛くなる。自分の不甲斐なさに怒ることすらできないほど、魂は憔悴しきっていた。自分に対し何か感情を抱く気力はもう残されてはいなかった。 「何か、欲しいものはあるか?」  そう言ったのがコンビニの光を眺めながらということに、また自分が情けなくなった。 「うん」  真っ赤になった両手を温めることもせず、シュウトは真っ直ぐに俺の目をみつめた。俺たちはコンビニに入り、お菓子のコーナーに行った。 「これがいい」  シュウトが指さしたのは、ポテトチップスのうすしお味だった。やはり、シュウトは妻に似ているらしい。俺はコンソメ派だった。 「それだけでいいのか?」 「うん」  俺たちはコンビニを後にし、駅に向かった。 「また背、伸びたな」  駅の改札をくぐり、人の少ないホームの端のベンチに腰掛ける。どんなに重ねてみても、心ははみ出したままだった。身体の寒ささえも忘れるほど、その時はシュウトが愛おしかった。 「父さん、僕……」  その後のシュウトの声は、ホームに舞い込んだ電車が引き連れてきた轟音によってかき消された。シュウトは、俺の乾いた手を握り返し、こちらを見上げながら、儚い笑みを浮かべた。その顔は、かつてあの人が俺にプレゼントを贈ってくれた時の、照れ隠しのような微笑みに似ていた。  停車し、扉を開けた電車の中から、一人の女性がこちらに向かって歩いてくる。その女性は、俺たちと一メートルくらい離れたところで足を止め、そしてこちらを見下ろし、ゆっくりと口角を持ち上げた。 「いろいろあったけど、でも、貴方と一緒にいられて、楽しかった。またいつか会おうね」  そう言って、女性はおもむろに頭を下げた。 「こっちこそ、いろいろ迷惑かけてすまなかった。本当にごめん。今までありがとう」  何か気の利いたことを言おうとしたが、結局、口から出たのはそんな陳腐な言葉だった。女性の視線は既にシュウトの方を向いていた。 「そろそろ、行く時間だよ」  優しく切ない声が、冬の世界の片隅を包んでゆく。 「うん。分かった。じゃあね、父さん」  俺の方に向き直ったシュウトの目線の高さに合わせて俺は腰を屈めた。 「いいか。母さんの言うことしっかり聞いて、いっぱい食べて、いっぱい寝て、いっぱい勉強して、いぱいやりたいことやるんだぞ。そんで、立派な男になれよ。お前は俺の、自慢の息子だ」  最後まで言い終わったときには、俺の頬は塩水に濡れてた。シュウトも、目を真っ赤にして、それでも真っ直ぐ、おれの目を見つめ返していた。冷たい風が吹き抜けるホームに、発車ベルの音が鳴り響く。 「行こっか」  女性とシュウトを乗せた電車の扉が閉まる。ガラス越しに、二人はこちらに手を振ってくれていた。俺も手を振り返す。最後は、満面の笑みで。作れているかどうかは、もちろん怪しいけれど。 「メリークリスマス」  動き出した電車の中、あっという間に二人は見えなくなり、やがて電車そのものが遥か遠くへ見えなくなった。最後に見た妻の口の動きが、なんとなくそう言っていた気がした。  真っ黒な空から美しい真っ白な雪が落ちてくる。  俺は電車が見えなくなった後もずっとその場に立ち尽くしていたが、余韻はすぐに闇の彼方へと消えてしまった。俺はその全ての感情を抱きしめ、ホームの片隅を後にした。家路を急いでいたが、急に虚しさに襲われ、そのまま道端に倒れこんだ。罪の意識に潰されそうになりながら、あの日の思い出を零されそうになりながら、俺は泣き続けた。  心の奥底には到底届きそうにもない真っ白な雪に、いっそのこと埋もれてしまいたいと嘆きながら、あるいは夜空の漆黒に吸い込まれてしまえばいいと諦めながら、俺は虚無を抱きしめ、心の中で温めていた。  どのくらいたっただろうか。俺の涙はとっくに枯れていた。ただひたすら、根拠も中身もない感情だけで突っ伏していた。だが、それももう終わりだ。この真っ黒な空の向こうには、もう明日が待っている。俺は歩き出した。いつもの街角をいつものように曲がり、続く道の先の街灯が消えている所まで歩く。  軽はずみな一言で、大きく人を傷つけてしまうことだってある。だからこそ、あの人はもういないし、同時に孤独を教えてくれたのだ。思えば、俺は人生の中でいろんな大切なものをあの人やシュウトに貰い、何も返すことができなかったような気がする。でも、俺が何か貰えるのも、これが最後だ。今日はクリスマス・イブなのだから、これはきっと贈り物なのだろう。  俺は、コートのポケットの中に入ったコンビニのレシートを握りしめ、灯りのつかない街灯の脇にある階段を降りた。 「ただいま」
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