大東亜の夜空

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 どこまでも続く草原の中、僕は空を見上げていた。吸い込まれるような、真っ青な空だった。遠くから動物の鳴き声らしき音が聞こえる。もしかしたら敵兵かもしれないが、それがどの国の兵かも勿論分からない。ただ、そんなことはもはやどうでもいいことだ。  僕には何もない。戦友たちも皆死に、空襲で家を焼かれて家族やきょうだいとも連絡が取れていない。倉敷まで嫁いだヤヨイちゃんは元気でやっているだろうか。そしてここから故郷までは、どのくらいの距離があるのだろうか。帰ったとして、僕を迎えてくれる人はいるのだろうか。  見渡す限り、所々岩肌の見える山と、地平線しかない。その中にポツンと、塗装も剥がれ骨組みが露になり、ところどころ凹んだ弾の痕が残る、操縦席のガラスも割れてボロボロになってしまった零戦が、その機体をペシャンコに潰して佇んでいた。それは風に揺れる草たちの中で、寂しさも悲しさも全て通り越して虚無の感情になったように見える。そして僕も、このまま何も感じなくなってしまうのだろうか。僕には世の中のもの全てが草原に見えるのかもしれないとも思った。だとしたら、僕は砂漠のど真ん中でも、ここは草原だと思えるのだろうか。だとしたら、それは凄く幸せなことだ。  そよ風に鼻を撫でられてくすぐったい。今は夏の筈なのだが、ここはとても涼しい。ただ、身体の芯は熱く、僕がまだ生きているのだということを示している。心地良い風と陽に当たり、ああ僕は幸せなのだと思う。僕は幸せ。そもそも幸せとは、自分の心が決めるものだ。僕が幸せだと言えば、僕は幸せなのだ。  呉の港から空母に乗り、隊長や隊員たちと盃を酌み交わしたところまでは憶えているのだが、その後が思い出せない。ここは三途の川というより天国への道筋といった方が合っている場所だが、もし現実なら当然、零戦に乗り込んだ後何が起こったのかというのは想像できる。思い出したくもない。今度はそよ風が、頬に触れてきた。この風は僕の心まで爽やかにしてくれるだろうか。僕は、自分がどこを怪我したのか、そもそも傷を負っているのか否かが分からないばかりか、自分が幸か不幸かさえ分からなかった。胸の中に虚しさばかりが広がってゆく。  どのくらいそうしていただろうか。うっすらと目を開けると、空は朱色に染まっていた。首を回転させてみる。岩肌の山から、逆光で黒くなった鳥の大群が飛び立った。それは美しい眺めだった。動物の鳴き声が聞こえ、また涼しい風が吹く。日は少しずつ落ちてゆく。今は夏の終わり頃であるので、日が落ちる場所は真西より僅かに北である筈だ。ただ方位は分かっても、ここがどこだか分からないので仕方がない。それに、首こそ動くので全方位を見渡すことはできるものの、僕は起き上がることができなかった。やはりどこか痛めたのだろう。どちらにしろ、僕は自力で家に帰ることすらできない。いや、その帰る家ももう焼け跡になっているだろう。  沈む夕日と変わってゆく空の色をぼんやり眺めているうちに、いつのまにか空には満天の星空が広がっていた。それは岡山の夜空よりも綺麗だった。いつか、この景色をヤヨイちゃんと一緒に見れたなら、どんなに嬉しいことだろう。それは手を伸ばせば届きそうなくらい近くで輝いていた。僕は星の名前を知らない。だが、世の中にこんなにも美しいものがあるのならば、軍歌を歌って軍事訓練を習うのではなく、平安貴族のように愛の唄を唄って星の名前を習うべきだった。勿論そんなことは許されないが、せめて愛国いろはカルタではなく、星の名前でカルタをしていれば良かった。愛すべきは、国ではない。人だ。人を愛せずして、どうして国を愛すことができるだろうか。風が気持ちよい。ここで目を覚ましてから何かを食べた記憶はないが、不思議と空腹感はなかった。案ずることはない。非常食は、辺り一面に広がっている。 「おとう、おかあ、兄さん……ヤヨイも、みんな、どうか生きていてくれ。お願いだ。そんで、これからも幸せに、幸せに……」  誰もいないのに、嗚咽を噛み殺す。僕は戦友も、金も、行くところも帰るところも、全てを失った。人間は、全てを失うと、愛だけが残るようだ。遠くで動物の鳴き声が聞こえる。 「どうか、いつまでもみんなを見守って……」  その時、今日一番の風が吹いた。と同時に、地平線の彷徨から黒い何かが近づいてきた。星の明かりだけでは見えないが、音が伴っている。神様は、本当に現れて下さったのだろうか。神風は、本当に吹いたのだろうか。  しかし、その音が少しずつ大きくなるにつれ、不吉な予感が迫ってきた。ゴーという音が、星空に包まれていた僕を襲った。それはもう我慢できないところまできた。騒音、いや轟音といった方が正しいのだろうか。まさに「そっちの」神風なのか。  それは一機ではなかった。何十機もの大群が、そう、山から飛び立った夕日の鳥たちのように、大きく広がって星空を覆って言った。ああ、僕の、僕らの空を取らないでくれ。もうおしまいにしよう。  忘れたまま二度と思い出すことのないよう願っていた記憶が、不意に蘇ってきた。僕は敵艦がどんな形をしているのかなどまるで知らない。戦場まで向かう途中、零戦の機体の下に積まれた爆弾が周囲の零戦と同様に爆発した。それからは旋回などの操縦が効かなくなり、自分でももう操縦する気力は残っていなかった。家族のことを想いながらひたすらに真っ直ぐ進み、あとは燃料切れになるのを待つだけだったのだ。  何十機もの神風が僕の上を通過してゆく。さっきまで僕と僕の愛する人々だけのものだったあの綺麗な星空が、急に遠く感じられた。  僕は愛を信じていた。どんなに儚くても、それはずっとそこにあるものだった。その思いは、自分の真上で黒い焼夷弾が放たれても同じだった。僕は呟く。 「ああ、僕はなんて幸せ者なんだろう」  風が心地よく、視界の片隅では流れ星が落ちていた。
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