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それは、テレビや映画でしか見たことのない景色だった。このスクランブル交差点に覆い被さるようなビル。色彩をこぼれ落としてしまったかのような、109の文字。建物の上の看板も、巨大電光掲示板も、ただ虚しいだけだ。
きっと、ハチ公の銅像も、この近くにあるのだろう。俺が容易にその場所を見つけることができないのは、この街に実際に立ってみるのが初めてだからである。人っ子一人いないのに、まして雑踏のせいにできる筈もない。だが、「実際に立っている」という表現は恐らく間違っているのだろう。人も車もなく、無音で、街全体が廃墟のように色褪せている渋谷を、果たして渋谷と呼んでいいものなのだろうか。もちろん、一度も「実際の渋谷」を体験したことのない俺には知る由もない。
そもそもが幻想であり、虚像なのだ。俺にとって渋谷とは、そういうものだ。ニュースにしろ、映画にしろ、アニメにしろ、周囲が大きく騒ぎ、盛り上がっているだけで、俺にとっては遠い世界の話だった。誰だってそうだろう、きっと。メディアによく取り上げられる建造物、乗り物、食べ物、何にしたってそうだ。自分はそこにそういうものがあるということを見聞きして知っているだけで、実際には行ったことがない。もしかしたら、ただの錯覚なのかもしれない。全て、自分一人の夢の中の出来事なのかもしれない。何をどこまで信じればいいかなんて、誰にも分らない。そういうものなんじゃないだろうか。
さて、そんな虚像のような無人のスクランブル交差点の真ん中でポツンと立っていると、黒い犬がこちらに走ってくるのが見えた。犬は、あっという間に俺の足元まで辿り着き、俺の周りをグルグルと回っている。この犬がハチ公なのは、なんとなく分かった。分かった、というよりは、最初からそのことを知っていた、と言った方が正しいかもしれない。それは、歩行者の信号が青になった次の瞬間、人々が横断報道に入り乱れ、どこからともなく交わっていくことが分かるように、まるで当たり前のことのようだった。
「青い空が見えぬなら青い傘広げて」
ハチ公は呑気に歌い出した。ハチ公が人の言葉を喋れることも、さして疑問ではなかった。それが常識なのだと、初めから頭に刷り込まれたような感覚だ。頭の中の価値観みたいなものを、他の誰かに書き換えられたのかと思った。そもそも、こんなの変な夢なのかもしれない。だが、「そんな筈はない」と、脳が独断でその可能性を否定してしまう。人間の思考は全て脳の指令によって働いているらしく、脳に否定されては、逆らいようがなかった。では、このように自分を客観視できているのは、いったい何故だろう? 右脳、左脳という話だろうか。
「ここに、俺以外の人間はいるの?」
そう尋ねてみると、ハチ公は歌うのをやめた。
「厳密に言うと、僕も人間なんだけどね。君は覚えていないだろうけど、僕は君をよく知っているよ」
的を射ていない回答だ。俺は別に、ハチ公の正体が人間だろうがなんだろうが、どうだっていい。というより、ハチ公はハチ公だ。今更人間宣言をされても困る。
「で、僕の質問に答えてよ。この世界に、人間はいるの?」
「いるとも。僕と君を除いて、少なくともあと三人」
三人。その数字には、何の意味があるのだろうか。すると、ハチ公は不敵な笑みを浮かべた。
「君に当事者意識ってものはないのかい? まさか、自分が未知の世界に迷い込んだ冒険者で、他の三人がこの世界の魔王だとでも思っているのかい?」
ハチ公の言葉が途切れ、渋谷の街に静寂が戻った。空は真っ白だ。それが空一面の雲なのか、それとも青色の抜け落ちた青空なのか、俺には判断がつかなかった。
「僕と君、そして他の三人。五人があの場所に揃えば、あるいは、新たな力が生まれるかもしれない」
ハチ公が何を言っているのかはさっぱり分からない。理解することを最初から放棄していた、と言った方が正しいのかもしれない。それは、悪夢に浸食されている時に似ていた。
「とりあえず、僕についてきてくれ」
そう言って、ハチ公は走り出した。四足歩行は速い。俺はとりあえず走り出したが、身体が重くて思うように脚が動かない。やはり夢なのではないだろうか。
しかし、そんな思考をもすぐさま停止させるようなことが起こった。109の色褪せた文字が据えられた円柱の建物の左側、俺の記憶に頼ると「道玄坂」という道を進んでいた時、ふと何か壁にぶつかった。前方には道が続いており、ハチ公以外に動くものはいないように見えるが、俺はその先に進めない。
「どうやら、地上においては閉鎖空間内でしか動けない身のようだね」
ハチ公が背後の俺の様子に気づいて足を止め、こちらに振り返るなりそんなことを言った。
「地下鉄を使うといい。電車は通ってないけどな。豊島園まで来てくれ。先に行って待っているぞ」
「待て」
俺はなんとなく、このまま行かせてはいけないような気がして、引き留めた。ハチ公が走り出しかけた脚を止め、再度こちらに振り返る。だが、尋ねたいことは何もなかった。「なんだい?」と聞き返すハチ公に、俺は結局、どうでもいい質問をした。
「アンタは何者なんだ?」
銅像にしては機敏に動くハチ公は、首を小さく傾げ、哀愁のある笑みを口元に浮かべて言った。
「僕は、魔女だよ」
そう言って、ハチ公は無人の渋谷の街から華麗に消え去った。
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