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「それで、心当たりはあるんですか?」
武田より一つ歳上の青年教師はそう言った。
「いや」
武田は短く答えた。
カウンターバーの片隅で酒を酌み交わしながら、どうして俺はこの男にこういうことを話しているんだろう、と彼は考えていた。帰宅途中に偶然出くわし、いい酒があるからとほぼ無理矢理にここまで連れて来られた。男と呑む趣味など持ち合わせないが、どうもこの男相手では調子が狂う。
芦田風太郎。
近くの私立高校で、古文の教師をしている男だ。一見物腰柔らかで、世間知らずのお坊ちゃん風にも見える。だが、へらへらとした笑顔の奥に底知れぬ“何か”を抱えていることは判る。
正直、この男は苦手だった。この男といると、自分ばかりがしゃべらされてしまう。その癖この男は自らのことは何一つ話そうとしない。理不尽だ。
「刑事であれば、恨みの一つ二つ買っているでしょう?」
「だからだよ」
武田は煙草をくわえた。
「思い当たる節がありすぎて、かえって特定しきれない」
「する気もない、ですか?」
「まあな」
「でも、一週間も続いてるんでしょう?」
「飽きたら止めるだろ」
芦田は何かを言おうとしたが、結局何も言わないままで手にしたグラスの中身を飲み干した。強めの酒だったのか、少しばかり顔が上気している。
「……物好きですねえ、実に」
「相手がか? それとも俺が?」
「りょーほーれす」
少々呂律が回らなくなり始めていた。潰れるのも時間の問題だろう。武田は今のうちにこの場を去ることにした。酔っ払いに付き合っていられるほど暇ではないし、この男を介抱してやれるほど親切でもない。明日も授業があるんだろうに、こんな所で潰れている方が悪い。
自分の分だけ支払いをしながら、武田は店内をちらりとうかがった。視界の隅に、カウンターに突っ伏している芦田の姿が映った。彼はそれに一切構わず、バーの扉を開けて出て行った。
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