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「香乃ちゃん、三年前事故に遭ったよね。道路に飛び出した子供かばって、内臓損傷するほどの大怪我したよね」  香乃はゆっくりと頷いた。  今香乃が通院しているのはまさにそれで、事故で子宮を損傷し、その治療で通っていた。傷は癒えたのだが、妊娠の可能性は薄いと判断されたのだけれど、全てを受け入れて結婚してくれた夫のためにももしかしたら奇跡があるかもと、病院に通い続けている。  それをなぜ鷹志が知っているのか分からなくて、香乃は鷹志の言葉を待った。 「あの時、僕は死にたくて道路に飛び出た。誰かを巻き込むつもりなんかなかった。ただ、僕が死んだら生まれたばかりの妹にしか興味のない両親が、後悔して泣いてくれるかと思っただけで……」 「ちょっと待って。僕って……鷹志くん、あの時の……?」  香乃は言葉を返しながら、鷹志から距離を取った。指先が震えている。 「香乃ちゃんがかばってくれて助かったけど、結局その時の検査で病気が見つかって入院……三年長かったけど、ようやくこの間ベッドから抜けられたから、どうしても香乃ちゃんに会いたかったんだ」  鷹志が微笑む。その顔を見ながら、香乃は両手で口元を覆い、はらはらと涙を流していた。  先日、母に今月も妊娠はしてなかった、という報告の電話をした時に、ついでのように母から聞いていた。 『そういえば事故の時助けた子、この間病気で亡くなったそうよ』  若いのに可哀そうに、と母が言っていた。けれど、それを聞いた香乃の感想はそうではなくて、なんだか言いようのない切ない気持ちになったのだ。  ――私、また『余計な事』したのかな。  あのまま事故で亡くなっていたら、三年もの長い間、辛い入院生活をすることもなかったのではないか、そんなふうに思ってしまった。 「……ねぇ、鷹志くん」  香乃が両手で頬を拭いながら、震えた声で鷹志を呼んだ。鷹志が相変わらず穏やかな顔でこちらを向く。 「私がしたことって、余計だったかな? あのまま事故で死にたかった?」  そう聞くと、鷹志はゆっくりと首を振った。 「香乃ちゃんが助けてくれたから、三年間両親を独り占めできた。妹を可愛いって思えるようになった。香乃ちゃんには、すごく幸せな時間を貰ったよ。だからずっとお礼が言いたかったんだ」  その言葉に、また香乃の目から涙が溢れた。幸せな時間がたった三年しかないなんて、こんな子供には重すぎるし、辛すぎる。どうして鷹志はこんなに穏やかに笑っているのだろうと思うと、彼の分も泣いているのではと思うくらい、涙が止まらなかった。 「香乃ちゃん、ありがとう。今度は僕が香乃ちゃんを幸せにしてあげるね。僕の最後の力、置いていくから」  そう言うと鷹志は香乃に手を伸ばした。そっと香乃の腹部に手のひらを当てる。  怖くはなかった。鷹志が手を当てたその部分がほんのりと温かく感じる。不思議と香乃は、治っていく、と思いながら目を閉じた。 「じゃあね、香乃ちゃん」  耳元でそう声がして顔を上げると、そこには一本の傘が倒れているだけだった。 「……行っちゃったんだね、鷹志くん……」  傘を拾い上げ、空を見上げる。  どこまでも高く、青が続いていた。 「ただいまー、ミーコ。珍しくお迎え?」  あの不思議な経験から一か月後、香乃が病院から戻ると、小学生のころ拾った猫のミーコが珍しく足元にすり寄ってきた。 「わかるの? ミーコ」  その背中をひと撫ですると、香乃のカバンからスマホの着信音が鳴った。香乃はそれを取り出し耳元に当てる。 「お母さん? うん、今病院から戻って……あのね、赤ちゃん居るって、私の中に」  香乃は電話の向こうの母の嬉しそうな声に、笑顔になった。それからふと、玄関の傘立てに視線を向ける。  きっとこれは彼がくれた幸せなのだと思う。  誰に話しても多分信じては貰えない。あの日、空から降ってきた奇跡を、生まれてくる子に話してあげられる日が来るといいなと思いながら、香乃はビニール傘を見つめ、微笑んだ。 
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