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 晴天の空に煌めく銀の太陽のように、一本のビニール傘が優雅に降りてくる。  その傘に手を伸ばし、受け取ってしまってから、香乃(かの)は思わず、あ、と声にしてしまった。  またやってしまった。きっとこれも『余計な事』に違いない。  香乃は周りの人曰く、『余計な事』をしてしまうらしい。小さい頃、通学路で子猫を拾った時、母親に「余計な事して」と言われてから、度々同じ言葉を色々な人から聞かされてきた。香乃にとってはそれのどこが『余計な事』なのか分からないのだが、世間ではそう言うらしい、というのは大人になるにつれ、少しずつ理解したことだった。  ところでこの傘はどこから降ってきたのだろう、と香乃はあたりを見回した。今日の天気は晴れところにより傘、なんてものではなかったと思うので、誰かが飛ばしてしまったものなのだろう。握っていた手を開いて柄を見ると、歪んだ字で『たかし』と書いてあった。  ――わかるわかる、傘の柄って丸くて書きにくいんだよね。  香乃はその字に親近感を覚え微笑む。すると遠くから、すみませーん、と声がして、香乃は顔を上げた。  周りはのんびりと歩くお年寄りや、足早に歩いていくスーツ姿ばかりだ。誰とも目が合わないので、おかしいな、と思っていると、もう一度声がした。 「上だよ、上!」  本当に空から降ってきたのかと香乃は空を見上げる。視界の端に、今香乃が出てきた病院の屋上があり、そこで手を振る影が見えた。  逆光な上、少し距離もあって顔までは分からないが、こちらに手を振っているのは確かだろう。きっとあそこから傘を手放してしまったに違いない。 「今、持っていきまーす!」  香乃はそう叫ぶと傘を畳んでから病院に向かって歩き出した。  病院の屋上ということは入院患者か職員だろう。確かこの病院の屋上は勝手には入れなかった、というのはここに通院している香乃も知っていた。  エレベーターに乗ると、珍しくどこにも止まることなく最上階へと着いた。  そこから廊下の端まで歩くと階段がある。それを上がり、『この先関係者以外立ち入り禁止』と書かれたドアを開けると、目の前に真っ青が広がった。それが空だと気付くのに少し時間がかかるくらい、きれいな青だった。  雨の染みがたくさん出来ているコンクリートを進み、香乃は口を開いた。 「すみませーん、傘持ってきましたー!」  声を張ると、こっちこっちー、と聞こえる。香乃はその声のする方へと進んだ。 「傘、ありがとう。おねえさん」  フェンスの近くから手を振るのは、入院着姿の少年だった。中学生くらいだろうか――背は香乃より少し低いくらいだが、体重は香乃の方がきっと重いだろうと思ってしまうくらい華奢な少年だ。 「こんな晴れた日に傘なんか広げて何してたの?」 「んーと……干して、みた?」  そんなふうにごまかすところを見ると、なにか悪戯でもしようと思っていたのかもしれない。この年頃の男の子にとって入院生活なんて恐ろしく暇だろう。 「なんでもいいけど、もう飛ばさないでよ」  香乃は少年に傘を手渡した。ありがとう、と少年が微笑む。 「じゃあ、私はこれで」  香乃も言いながら微笑むと、途端に少年の表情が曇る。 「もう、帰るの?」  その顔に、つまらない、と書いているかのように不満そうな顔をする少年に、香乃は小さく息を吐いた。この後は家に帰って晩御飯を作るくらいしか予定はない。香乃は、しょうがないなあ、と口を開いた。 「少しだけ、お話する?」  香乃が聞きながらフェンスに背中を預けると、少年も嬉しそうに隣に並んだ。 「ねえ、その傘に書かれてた『たかし』って君の名前?」 「うん、鷹志(たかし)。傘って書きにくいからひらがなで書いたんだけど、やっぱり上手く書けなくて」  手のひらに指で漢字を説明しながら、鷹志が話す。 「わかる、わかる! 傘って名前書きにくいよね。私も苦労したんだけど、夫がね『シールに書いて張ればいい』って言って。あれ聞いた時、目からうろこだったなあ」  香乃が言うと、鷹志は、結婚してるんだ、と驚いた顔をした。 「そう、まだ新婚さんだよ。今日も診察で、橘香乃さんって言われて一瞬、私かな? って迷ったもん」  まだ慣れない新しい苗字。けれどこれは、夫が自分を受け入れてくれた証でもあるので、呼ばれる度にとても嬉しかった。 「香乃ちゃんって言うんだ。名前、知れてよかった」 「大袈裟だなあ。名前くらい、教えるよ」  香乃はそう言って笑う。けれど、隣の鷹志の表情は硬かった。 「三年前は教えてもらえなかったよ」 「……え?」  今度は香乃の表情が固まる。聞き返すと鷹志は穏やかな笑みを浮かべた。
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