一夜

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「お嬢様、旦那様からお見合い相手の書類が届いております」 「…懲りないわね」 執事の橘から書類をもらってペラペラとめくってみる。読む気なんてサラサラない。お父様のことだから良い人しか選んでないでしょうけど、正直興味が無い。 「橘、悪いけどこれお父様に返しといて」 そう言って貰ったばかりの書類を突き返すと橘は困ったように眉を下げる。 「気に入った方はいらっしゃいませんでしたか? 」 「ええ」 即答する。橘だって私がこう答えるのを分かっているくせに。 「お嬢様、旦那様もお嬢様のお幸せを考えて」 ダン、 と机を叩いて橘の言葉を遮った。 「橘、下がって」 「はい」 私の気持ちに勘づいているくせに結婚相手を選べと橘に言われているようで少し冷たく言ってしまった。直ぐに橘はこの部屋を出ていった。 橘は私の執事だ。 でも、私にとっては6歳年上の男の人。 橘は私が10歳の時にこの屋敷にやってきた。 お父様に紹介された時、一目惚れしてしまった。 10歳の子供が生意気に一目惚れだなんて、って今は思うけど、してしまったんだもの。仕方ない。 私は、この気持ちを橘に言うつもりは無い。きっと橘を困らせてしまうから。今だって困っているのかもしれない。私の気持ちに橘はきっと勘づいているから。でも、橘にとって私は使えている主人でしかない。今後に支障をきたすなら、気まづくなるくらいなら言わなくていい。伝えなくていい。 ただ、主人と執事の関係で、このままでいられたらいい。生ぬるくて落ち着く、安全な関係でいたい。 だから、お父様から来た縁談話は全て断わっている。少し申し訳なさも感じるけれど、慣れればそんなものだ。私も今年で20歳。親からすれば娘の結婚相手が気遣いたいのだろうが、私は橘以外を好きになるつもりは無いし、結婚するつもりもないため、その気遣いは不要だ。 我ながらずるくて面倒で親不孝者な娘だと思う。 そんなことを考えて毎日を過ごしていた。お見合いの話は私にとってNGだと思ったのか、橘はあれから私にお見合いの話をしない。たまに机の上にお見合い相手の書類が置いてあるけど、放っておけばいつの間にか無くなっている。橘の仕業だろう。 今日も橘の入れてくれたお茶を飲みながら仕事をしていた。すると、いつもは私の仕事中絶対に声をかけてこない橘が珍しく口を開いた。 「お嬢様、大切なお話があるのですが」 橘の真剣な目といつもより少し硬い声に驚き、気づけば直ぐに 「聞くわ」 と返事をしていた。 橘は私の前に立つ。どこか、嫌な予感がした。 「お嬢様、私は来月から他の家に移ることになりました」 「………は? 」 一瞬何を言われたか理解できなかった。私を無視してペラペラと橘が説明し出す。 「他の家と言ってもお嬢様のおば様のところです。おば様にぜひ、と言われていたので行くことに「なんで…? 」 「え? 」 意味がわからない。橘の言葉が頭に入ってこない。ただ、私の元を離れると言っているのはわかる。 「私の事、嫌いになった? 」 涙がぽたぽたと落ちる。仕事の資料が濡れるが、そんなの気にしている余裕がなかった。 「そんなわけないでしょう? 」 優しく笑って私の涙を拭ってくれる橘。嫌だ。この温もりを手放したくない、と思う。 「じゃあ、なんで? 」 「仕事場が変わるだけです。ただの移動です。そこに個人的な気持ちはありません」 「お父様が移動しろって言ったの? 」 何となく、分かってしまった。 「っ…」 ああ、やっぱり。お父様に気づかれてしまったのか。 「はは、私ってそんなにわかりやすいかなぁ」 自嘲気味に橘に言ってみる。まぁ返事が返ってくる訳もなく。 「お嬢様、今までありがとうございました」 返事の代わりに聞こえてきたのは乾いた挨拶。そんな、お別れの言葉なんて聞きたくない。 そのまま出てこうとする橘。 私は思わず席を立って橘の腕を掴んでいた。 「…ごめんなさい。迷惑なのは分かってる」 手には汗が滲む。少し橘の腕を握る手に力がこもった。こんなことを衝動的に言っていいのだろうか、と続きを言うことをためらって私は俯いた。でも、意を決して、もう言うしかないと思って、顔を上げた瞬間… 「!」 私の唇が橘のに重なる。 「それ以上言わないでください」 そのまま優しく抱きしめられる。切なそうに笑う橘が愛おしくてたまらない。私は離れたくなくて、橘の背中に手を回して思いっきり抱きしめる。 「…俺は、使用人ですよ」 困ったように橘は言う。いつもは一人称が「私」なのに「俺」と言う橘に少しどきどきしてしまう。 「ええ。私だけの、ね」 「全く…」 橘は軽くため息をついてから、また私にキスをした。 そのままベッドに押し倒される。 「お嬢様…」 「名前を呼んで、橘。敬語も要らない」 お嬢様なんて嫌だ。嫌でも自分の立場を思い知らされるから。でも、橘は私の名前を呼んでくれないのかもしれない、と思って橘の帰ってくる声が怖くて顔を背けた。 「こっち向いて、心矢(みや)……俺の名前も、呼んでくれるか。」 にこ、と笑って優しく私の名前を呼んでくれる橘。嬉しくて、涙が頬を伝った。 「颯希(さつき)。ん…」 名前を呼べば直ぐに颯希はキスをくれる。 ああ、この温もりを離したくない、と何度も思った。 私は颯希に抱かれた。颯希は私の体にたくさんのあとを残した。全てを忘れて颯希の温もりを感じながら、眠った。 次の日、 起きたら、颯希はいなかった。 もうあの温もりは消え去り、となりは冷たい。何となく、そんな気はしていたのだ。 颯希は名前は呼んでくれた。でも、絶対に私のことを愛してるだなんて言わなかった。そして、私にも颯希のことを愛してると言わせてくれなかった。 服を着ようと思って立ち上がる。ふと私の机を見れば上には小さく2つ折りにされたメモ用 紙が目に入った。中に 『今までありがとうございました』 と、達筆な字で書かれていた。颯希の字だ。 起きた時は涙は流れなかったのに、何故か今になって涙が目から勝手に流れてきた。 最後まで抜かりなく、私の立場を解らせてくれる人だと、そんな所も好きだったと、涙を拭きながら思った。 それから私は結婚した。 適当にお父様が持ってきた資料の中から良さそうな人を選んだ。 私の今は幸せだと思う。きっと、橘を愛し続けるよりずっと楽で穏やかな幸せだ。 ただ時々、颯希に抱かれた夜を思い出して、あのまま颯希との未来を夢見たかったと思う。
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