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鍵穴にキーを差し込み、カードではなく古典的な方法で解錠する。ドアノブを下げ扉を押した。明かりはついておらず、無人のようだ。夜目がきくホレーショーは室内へ真っ直ぐ進み入り、鏡の前で膝立ちになる。大きな三面鏡がそれぞれの角度から青年の顔を映した。
時おりその顔は端正な女のものに見えた。まるで彫刻の芸術品のよう。磁器のように肌理の細かい白い顔は美しい淑やかさに占められている。しかし、びっしりとひしめき合うまつ毛の下は獰猛な瞳をしている。
緑色の目が暗闇の中で爛と光る。猛獣が敵を眼下に見おろすような眼差し――変貌を遂げる猫人間のような恐ろしさがあった――いや、待て。この場には不釣り合いだと青年が思い直す。ホレーショーはいくつもの目付きを使い分けることができた。それこそ猫のように喉元を見せつけ、鏡へ擦り寄る。
「俺を見て」
青年は様々な言葉を用意した。また言語も多岐にわたる――フランス語・イタリア語・スペイン語――順に囁く。その準備は抜かりない。
「君が欲しい、君が欲しい」
薄く咲いて咲いたような形の唇で口説き文句を垂れ流す。眼差しはうっとりとして甘く、星を閉じ込めたような輝きかたをした。
ホレーショーは男だが、娼婦のようにも淑女のようにも振る舞うことができる。
「おかしくなりそうだよ」
彼は容易くまなじりや頬を染め、心持ち声を低く落とす。雄の匂いをさせることが肝心だった。ホレーショーを取り巻く女たちはいたいけな少女のようななりをした青年が覗かせる男らしさが好きなのだ。
薔薇色の息を吐き、何かもう一つ囁こうかというところで部屋の明かりがついた。
「今度は身を粉にしてどんな淑女を口説くつもりなんだい……?」
しわがれた声がした。長い間使い続けられている喉が絞り出す声は潤いなく枯れているが、かつては可愛らしい声をしていたのだろうと分かる高さと柔らかさがあった。
「いたの? 起きてたのか」
落ち窪んだ目がホレーショーを見ていた。青年が振り向く。歳をとり、肉の削げた顔をしていたが不思議と気味悪さはない。品のいい老婦人だ。
彼に「また大暴れしたの」と問う、齢八十の老婦人はC字型の杖をついていた。ホレーショーが慄き目を剥いた。咄嗟に彼女の手から杖を奪う。
「馬っ鹿……! 常用じゃねえぞ?!」
すぐさまホレーショーは安全装置が外れていないか確認する。どうやら無事のようだ。ひとまず安堵する。
「初めにあなたが貸したんじゃないのよ。「どうぞ? ご婦人」なんて」
老婦人が悪びれた様子もなく肩をすくめる。青年は何か言い返そうと口を開いたが、薔薇色の唇は固く結ばれた。そこに自身の人差し指を押し当てる。「静かに……」と他方の手で彼女を手招き、肩を抱いた。
息を殺して、音もなく部屋のドアへ向かう。
ドアスコープに杖の先を付けた。「撃つ」言うが早いか、ホレーショーが腕に老婦人を巻き込んだ。利き手が杖の引き金に指を添える。彼に抱かれた老婦人が青年の胸に顔を埋めた。スーツの胸ポケットにあるハンカチから血と硝煙の臭いを嗅ぎ取った。
「ホレーショー……?」
「ちゃんと仕留めた。安心していい」
美しい男は甘ったるく囁き、老婦人のこめかみに唇を寄せる。「先客が」ホレーショーが低く唸る。
老婦人は弾かれたように青年を見た。彼は目配せをして「ドアを開けろ」と指示を出す。……面倒なことになったかもしれない。
ドアの先には男がいた。この宿の給仕係の恰好をしているが、変装だろう。名札を確認し後で顔写真つきの従業員名簿と見比べなければならない。彼らと一致しない確率は八割だ。
男は喉を掻き斬られていた。しかし血飛沫が壁一面に飛び散った様子も閉ざされたドアの隙間から血液が溢れ出ることもない。ただ血塗れの屍をホレーショーは「美しくないな」と感じた。「えらく下っ端を寄越されたもんだ……」とも。
今宵の後始末は多い。
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