暗黒街の天使

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 二人は向かい合わせの席で紅茶を(すす)っていた。 「見覚えはあるのか?」  ホレーショーの問いに老婦人が首を振る。しかし青年は変わらず涼しげな表情をしていた。被害者も加害者もどこの誰だか知らないが、あれは自分に対する挑発だと彼は感じていた。  人間はいかなるときも美しく一生を終えるべきだという彼の信条に反したからだ。律儀にもどこかから運び込んできてくれたらしい。  青年が「ここも信用ならない」と釘を刺すと、老婦人は声を忍ばせて笑った。「誰かの機嫌を損ねたの? お馬鹿さん」彼女の目が悪戯っぽく形を変える。 「まさか。淑女(レディ)に無礼な振る舞いはしない」 「はいはい、まったく頭が下がりますよ。よくそんなに女ばかり渡り歩けるね……? うんと優しくして」 「女性は神秘だからな」  ホレーショーは容姿や年代・性格にとらわれず、女性を崇拝していた。彼女たちは男のすべてを包み込むことができる唯一の存在だからだ。 「どうする、まだ杖は持っておくか? 俺はいっそここから出たほうがいいと思うが……」 「心配してくれていれるの? こんなおばあさんまで………」  老婦人はおどけたが、ホレーショーは途端に不機嫌になった。「さっきの話………」緑色の瞳が、じとりと相手を見る。「えぇ、そうですね。女性は神秘でしょう?」と彼女はなおも笑い、二〜三度頷いた。「ああ」とホレーショーも相槌(あいづち)をうつ。  美しい青年には女を崇拝する節があった。その理由を老婦人は知らない。 「ホレーショー、スーツのジャケットをお貸し。それからマフラーも。怪我をしたのね、そのハンカチを水で濡らして血を拭いなさいな」  老婦人の視線が青年の目元に向いている。だが、彼は「だめだ。銃を拭ったから硝煙がついている」と返す。  すると老婦人が嘆息し、ホレーショーに鏡を渡す。「ほら鏡を見て。ちゃんと自分で拭うの」彼女の手には自身のハンカチが握られていた。青年が嘆く。 「ああ。俺の顔が汚れた」  ホレーショーの表情が歪んだ。これ以上にないほど最低で最悪の気分だと彼は思った。薔薇色の口唇(くちびる)が垂れ、下の歯の二本の犬歯が見えた。  青年は自らの顔が美しいことを知っている。またその顔に傷がつき、汚れることを何より嫌っていた。その美貌こそホレーショーが"暗黒街の天使"と呼ばれる由縁だ。 「血がつくぞ」 「いいわよ。あなたの上着と一緒にクリーナーで洗ってしまえば済むんですからね」  彼女がホレーショーのマフラーやコート、ジャケットを剥いだ。中折れ帽は彼自身が拭う。「他は?」「いいや。ない」「わたしは他に寄るところは? と聞いたの」老婦人の台詞に青年は思わず笑ってしまった。「なんだ、そっちか」と独り()ちる。  ホレーショーは再び「いいや。ない」と繰り返した。 「君が心配だからいる。ここに」  自身を清めることは今夜中に済ませたが、(しかばね)の処理は翌日に持ち越すことにした。この近辺は彼の庭であり、余所者の死体などはよく転がり込んでくるのだ。  彼は世話を焼いてくれている老婦人に、そう微笑みかけた。彼女が諸用を終えると、ホレーショーが彼女の手を引く。ラベンダー色の寝間着は老婦人の気に入りだと青年は知っていた。 「寝付けるか?」 「えぇ、おそらく」 「強心臓だな」 「あなたといると慣れたんですよ?」  青年と老婦人は隣り合わせのベッドで眠りについた。彼が皺だらけの手を握る。年寄りというものは、もうすっかり皮と骨だなと思った。  この老婦人はホレーショーが、ほんの少し子どもに戻ることができる女だ。「さあ、もうお眠りなさい」と頬を撫でられる。彼は老婦人のこういったところを好いていた。
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