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恥じないように、悲しませないように
「僕は、原田先生に恥じないよう書き続けただけです。そして、父に恥じないよう、母に恥じないよう。ふたりを悲しませないようにと思っていました。僕は決して、決して、育てやすい子供ではなかったから……あ、ちがうな。育てやすい子なんて、世のなかにはいないか……」
記者のひとりが矢城に尋ねた。
「ご両親には、どう報告されましたか?」
「父も母も他界しました」
ざわめく人々を見渡し、矢城は言葉を続けた。
「僕は……走るのが遅すぎたんです。この受賞を伝えたい人々……父も、母も、原田先生も、既にこの世を去りました。それでも、もし本当にあの世があって、皆に会えるのなら、『よくがんばった』と言ってほしい。そんな叶うかわからない願いを支えに生きてきました」
ぶっきらぼうだったのか、短い言葉しか言わなかった父。
言葉は少なくとも、父とともに、自分に寄り添おうとしてくれた母。
ふたりには戸惑いがあっただろう。
あの頃。道に迷い、一日、一日が過ぎるのを長く感じたのは矢城だけではなかったはずだ。
矢城が凪出版でデビューした頃。母、父と、立て続けに旅立った。
「ごめんね……ごめんね、一郎。元気な子に産んでやれなくて」
数年間病床に伏していた母は、亡くなる日の朝までそうつぶやいていた。
「長生きしたかったなあ……」
九十歳になる直前だった父が最期に遺した言葉の意味は、いまでもわからない。
ひとり残す息子を心配していたのか。息子の未来をもっと眺めていたかったのか。
……もしかしたら、『中島』はいまもどこかで『書いている』のかもしれない。
あのとき。『中島』が矢城の小説を本当に盗用したかどうかは、『中島』だけが知っている。
真相のわからぬ痛みに我を忘れ、復讐を果たす小説を書いて、さつきはなぐさめてくれるだろうか。許してくれるだろうか。
いや、きっと眉をひそめるだろう。
そう気づいた矢城は、凪出版からさつきの原稿を受け取ったあと、数ヶ月も縛られていた『中島の物語』をパソコンから消去した。
もし本当に盗用ならば、うまく誤魔化せたと『中島』はいまでもほくそ笑んでいるだろう。
しかし他人は騙せても、自分だけははっきりわかっている。
事実を知っている自分は騙せない。
懺悔するチャンスを不意にしたがゆえに、己の罪を心に秘めたまま一生を生きるのは、もっとも重い罰ではないだろうか。
ひとりで抱えるのが苦しい秘密もあれば、誰にも知られていないからこそ、心であたためていきたい秘密もある。
それが、矢城とさつきの恋だった。
【終】
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