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あなたの言葉が欲しい
矢城さん、こんにちは。
矢城さんが書いてくださった便箋。罫線の深い緑が美しいですね。私も欲しくなって鳩居堂で買いました。東京にもあるなんて、うれしい!
ふたりのやり取りには拝啓も前略もなかった。いや、はじめはたしかにあった。
しかし、さつきがかつて書いた『私と手紙』とまつわるエッセイにこんな記述があった。
拝啓も、前略も好きだけど、「こんにちは」と軽やかにはじまる挨拶も私は好きです。
「さつきさん……」
『さつき』という名は、口に出すのをためらうほど尊い。
声にするのはひとりでいるときだけ。家族の前では、『原田先生』と言っていた。
「さつきさん。僕は、僕は陽に当たるべき人間じゃなかったんでしょうか。太陽の下に出たから、僕は苦しいんでしょうか」
矢城さんの文章は詩的ね。もしかして、文章を書いているのかしら。
あれは何通目の手紙だったろう。
さつきは感じ取ったのだ。書く者特有の香りが矢城の手紙から放たれていたのだろう。
矢城は認めた。あまり長いものではないけれど、小説やエッセイを書いていると。
「さつきさん。書く人にとって、明るいところに出るのは、そう幸せなことではないんだって思うようになってしまいました。僕を、僕を……叱ってはくれませんか」
手紙の後半の文面を指で辿った。
手書き作家であるがゆえなのか、さつきの筆圧はとても強く、彼女がこの世を去っても便箋の凹凸として残っている。
アドバイスをあげるわね。
書くものを、陽に照らすのよ。
「さつきさん。さつきさん。僕はいまでも、あなたの言葉が欲しい」
(なに言ってんの、矢城さん。あなたと私は、40歳も離れているのよ。こうなることは必然なの。あなたは私に頼らずに書かなくちゃ、ね?)
(矢城さん。苦しいならおやめなさいな。私が好きなのは、書く喜びに満ちた文章よ)
相反するふたつの返事を、さつきの声、いつか聞いてみたかったさつきの声を矢城は自分の胸の中で絶えす編んだ。
あの事件から。
いや、事件というのはあまりにもおおげさだ。
苦しんでいるのは、悲しんでいるのは、矢城だけだった。
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