喧嘩

3/3

77人が本棚に入れています
本棚に追加
/19ページ
 その日の夜、和美から電話が来た。私は自室でスマホを取った。 「もしもし?」  私がそう言うと、彼女はちょっと間黙ったままだった。 「今日はごめん。私、どうかしてた……」  和美は蚊が鳴くような小さな声で言った。 「どうしたのよ。何かあったの?」  私は怒りと心配が交じり合ったような複雑な気持ちだった。 「今から会えない? 話があるの。電話じゃなくて直接話したい」  部屋の時計を見ると午後7時過ぎだった。 「いいわよ、どこで会う?」 「あの図書館のベンチでいい?」  私はすぐに行くと言い残し、電話を切った。  図書館のベンチには、すでに和美が座っていた。  うつむいたまま、握りこぶしにした両手を膝の上に置いている。夜の闇の中、傍らにある街灯だけが彼女を照らしている光景は、一層その悲壮感を際立たせていた。 「ごめん、待った?」  私は彼女のあまり見たことのない雰囲気に戸惑いつつそう言うと、隣に腰を下ろした。  それからしばらくふたりの間を沈黙が包んだ。私はただ彼女の言葉を待っていた。 「ごめん……」  和美は今にも消え入りそうな声で、それだけ言った。 「何かあったの?」  私は彼女のうつむいている顔を覗き込むようにして言った。 「真理のことが心配だったの。もしかしたらまた悪い男に騙されてるんじゃないかと思って……」  その言葉で、彼女のある程度の気持ちは理解できた。だがそれでもまだ腑に落ちないところはあった。 「だからってあんなにきつく言うことないじゃない」 「でもあの人、嘘付いてた」  和美は突然私のほうを見やり、過剰な程の真剣な眼差しを向けた。 「あの人、垣内美亜が好きなんでしょ? でもあの人、あの一番印象的なラストシーンの手紙の内容を全然知らないみたいだった。きっとあんたに気に入られるために嘘付いてたのよ」  昇がそんなことをするはずがない。あの優しい彼が、私にそんな嘘を付くはずがない。私は彼を擁護する意見を探した。 「人が好きっていう気持ちには個人差があるでしょ。彼があの言葉を知らなかったからって嘘を付いてるとは限らないよ」  言葉ではそう言いながら、私は頭の中で、密かに彼との記憶を呼び起こしていた。  そういえば本の話題になると、私が一方的にしゃべっていたような気がする。彼は基本的に私の話に相槌を打つだけで、数少ない意見といえば、内容に触れないような抽象的なものばかりだった。  私はそんな邪推を、かぶりを振って払った。私は昇を信じたかった。運命によって結ばれた彼のことを。 「だってあんな運命的に偶然出会った相手が、そんなことするわけないでしょ!?」  私は昇を悪者扱いする和美に対し、段々敵意のようなものが沸きあがっていた。咎めるような口調で彼女を言い負かそうとした。 「そんなのあんたが取ろうとしてる本に、後から手を伸ばせば簡単じゃない。あの人が図書館に通ってたのも、カモになりそうな女を引っ掛けるためだったのかもしれない」  和美による彼の批判は止まらなかった。 「最初のデートのとき、目をつぶって選んだ見たい映画が偶然同じだったって話も、あんたが目をつぶってる間にこっそり目を開けて、あんたが選んだ映画を確認すればできることでしょ!? 運命でも何でもないじゃない!」  私は彼女の意見を否定できなかった。否定できないからこそ、余計に腹が立った。彼女が昇との仲を引き裂こうとしている悪魔のように感じた。何とかしてこの悪魔を退治しなければ、昇との関係が終わってしまう。そんな気がした。 「いい加減にしてよ! 私はあんたみたいな臆病者とは違うのよ!」  私の突然の反発に、和美は目を丸くして驚いていた。 「どういうことよ……」 「私は男が怖くていつまでもひとりでいるようなあんたとは違うって言ったのよ」  私もまた和美への批判は止まらなかった。止められなかった。 「そんな臆病者が、偉そうに意見なんてしないでよ。大体おせっかいなのよ、あんた。私が実家に帰ってきたときも、かいがいしく世話なんて焼いてさ。それで恩を着せたつもり!? やめてよ、恩着せがましい。私はそんなこと頼んでないから。私の心配してる暇があったら、まずは自分の恋愛なんとかしたほうがいいんじゃないの!」  私は何かに怯え、まくし立てるような早口で言った。それがさも悪魔を追い払うための呪文でもあるかのように。  和美は目を丸くしたまま、きれいな両の瞳から大粒の涙を流したかと思うと、勢いよく立ち上がり、走ってその場を後にしたのだった。  私はその後を追わず、声もかけずにただ黙ったまま、ひとりベンチに佇んでいた。そして津波のように押し寄せてきた後悔の念に襲われていた。  思ってもいないことを言って、和美を傷つけてしまった。私は世界で最低の人間になってしまったような気持ちでいた。悪魔は彼女ではなく私自身だったのだ。私はしばらくの間、呪いにかかったように止まらない嗚咽を漏らしながら、懺悔の涙を流し続けたのだった。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

77人が本棚に入れています
本棚に追加