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私達は建物を出て、施設内にある、あの和美との思い出のベンチに腰を下ろしていた。夜が迫る薄暗い世界を、傍らに立つ街灯が優しく照らしてくれている。
「まだ、自己紹介してませんでしたね。ぼく、『灰谷昇』っていいます」
「私、『高橋真理』です。よろしく」
無事に自己紹介を終え、次に何を話していいか困っていた私を、彼はしっかりリードしてくれた。
「本、好きなんですか?」
「そうなんです。特に恋愛小説が」
「ぼくもなんですよ。でも男が恋愛小説が好きって中々周りに言えなくて。何か恥ずかしいじゃないですか」
「そんなことないですよ。素敵だと思います」
「ぼくが恋愛小説好きだって知ってるのは、今のところ世界中であなただけなんですよ。絶対に誰にも内緒にしておいてくださいね」
私だけに打ち明けてくれた彼の秘密。もちろんバレても構わない程度の他愛もないことなのだろうが、それをふたりだけで共有できたことが嬉しかった。
「垣内美亜の本取ろうとしてましたけど、彼女の作品、お好きなんですか?」
私は弾んだ声で彼に尋ねた。
「え? ええ、まあ……」
「いいですよね~、彼女。あっ、処女作の短編集読みました? 特によかったのはやっぱり表題作の……」
彼が黙って聞いてくれているのをいいことに、私は彼女の作品の魅力を、言葉の弾丸のようにして撃ちまくった。
私が自分のしている愚行に気が付いたのは、図書館の電気が一斉に消えた瞬間だった。視界に入っていた明かりが突然消えたことにより、私は我にかえった。そのとき目の前の灰谷さんは、なおも穏やかな笑顔で私を見てくれていた。
慌ててスマホの時間を見てみると、もう7時過ぎになっていた。私はいつの間にか、30分弱も一方的に本の話をしてしまっていたのだ。
悪い癖が出てしまった。私はつい、目の前にいる相手が和美の乗りで話をしてしまっていたのだ。こんな話を、私と同程度の熱量を持って聞いてくれる相手など、この広い地球を探しても和美ぐらいのものだというのに。
私は取り乱し、とりあえず非礼を詫びた。
「すみません、急にこんな話、長々としちゃって……。その、失礼します」
間違いなく彼に嫌われてしまった。私はもう一刻も早くこの場を離れたかった。今にも泣き出しそうな情けない顔でベンチを立ち、足早に彼から離れようと歩き出す。
「本のこと、本当に好きなんですね」
彼が背後から話しかけてきた。私は恥ずかしくて彼の方を向けなかった。
「よかったらその続き、電話で聞かせてくれませんか?」
私がその言葉に驚いて振り返ると、彼はベンチから立ち上がり、自分のスマホを掲げて軽く振っていた。
私は彼の言葉の意味を理解するのにほんの少しだけ時間がかかった。そして先程までの弾んだ声で大きく返事をすると、踵を返して彼のもとへ向かったのだった。
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