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「乾杯」
ふたり揃って言うと、赤ワインが注がれたグラス同士を軽く当てた。心地よい高音の音色が私の耳に微かに響く。
私達は、灰谷さんが予約しておいてくれたイタリアンのお店で、ちょっと早めのディナーをいただいていた。
ちょっとポップで、それでいて洗練された店内は、まさに彼のイメージそのものだった。美味しいパスタに舌鼓を打ち、好きな人の前で程よくアルコールが回った私は否応なく饒舌になる。
先ほど見た映画の話。面白かった本の話。和美や家族とのばかばかしい思い出話――。灰谷さんに、もっと私を知って欲しいという思いが次から次へとあふれてくる。
彼は私のどんな話にも興味を持って聞いてくれる。いつだって私の意見を肯定してくれる。数度の悲恋を経て、私はようやく自分の全てを受け入れてくれる人に巡り会えたのだ。こうしてしばらくの間、夢のような時間を過ごしたのだった。
「今日は色々どうもありがとう。それと、ごちそうさまでした」
「いいよ、男として当然だからさ」
灰谷さんは、夕食の代金を私の分まで気前よく支払ってくれた。そして私の自宅の最寄り駅からの道すがらを、彼にとっては遠回りになるにも関わらず、わざわざ送り届けてくれたのだった。
「じゃあ、また連絡しますね」
私は彼に背を向け、自宅の玄関に向かって歩き出した。
「あの……!」
彼に呼び止められ、私は後ろを振り返った。
「ぼく、こういうことは中途半端にしたくないから……」
そのときの彼はいつになく真剣な顔をしていた。どうやらそのあとの言葉を言いあぐねているらしく、数秒の間、私は彼の稀有な表情とにらめっこしていた。そして彼は意を決したように、力強く言った。
「あの……ぼくと、付き合ってください!」
彼の突然の告白に、私は目を丸くして驚いた。まさか彼のほうから、こんなに早い段階ではっきりと私に対する好意を示してくれるなんて思ってもみなかったのだ。
「はい、よろしくお願いします」
私は明るい声で、ぺこりと頭を下げた。すると彼は程なくして満面の笑顔となった。
「よかった。じゃあ、とりあえず今日のところは帰ります。ああ、こっちからも連絡しますから。また一緒にどっか行きましょう。それじゃあ」
彼は興奮気味に言葉を並べ立てていた。その様子を見ても、彼が嬉しいのだということが言葉にしなくても伝わってくる。
後ろ歩きをしながら、私のもとを遠ざかって行く彼は、大げさに両手を真上に上げ、それを左右にぶんぶんと振っていた。そのときにも、愛おしい笑顔を私に向けてくれていたのだった。
晴れて恋人同士となった私達は、それから頻繁に連絡を取り合い、デートを繰り返し、順調に愛を育んでいったのだった。
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