3、相合傘

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3、相合傘

「お父さんの会社から、山下駅までは55分」 2杯目のカレーを食べながら言った(ハジメ)は、やっぱり私を見ない。 「どうしてそんなこと知ってるの?」 「社会見学の作文書くのに調べた」 涼しい顔で答える。 そうか、先月、社会科の(家族の職場見学)で、父親の会社"COCOON''に行ったね。 ここから駅までは歩いて15分。こんな時は車の免許が欲しくなる。 「雨降ってるもん」 そう応えたら、一はやっとこちらを見た。 「雨降ってるから傘持って行くんやん、晴れてたらいらん。お父さんメールしてきてんから」 「お母さん、今朝、傘持ってって言ったの。なのにお父さん忘れたから」 「お母さんに迎えに来てほしかったんと違う?」 一は、ずっと私を見ない。 「お兄ちゃん、なにか知ってるの?」 「知らん!」 答えてパクパクと嫌いなはずのトマトを食べている。 「早く行かないと電車つく」 一は怒ったように言った。 食べ終わった食器をシンクで洗おうとしたら 「お母さん、早く行き!俺が洗っとく」 と。 もしかしたら、いい機会なのかな。この家の中ではしない方がいいかもしれない話。 「わかった」 キッチンの狭い入口に仁王立ちで、腕を組んでいる一の横からリビングに出る。 ポシェットにサイフと携帯を入れて玄関に行こうとしたら、一の声。 「スカートで行ったら?」 朝からどうしたんだろう?スカートスカートって。 「これでいいの!」 ジーパンのまま玄関に出て、下駄箱から夫の長い傘を出した。 「じゃあ行ってくるから、危ないことしちゃだめよ!」 二本の傘を持って、外に出て鍵をかけた。 駅で会って帰ってきたら、ちょうど30分くらい。 雨は随分と静かになっている。もう少しで止むかもしれない。ポツポツと歩を進めながら、浩さんと二人だけで外を歩くのは、本当に久しぶりだと思っていた。 浩さん・・一が生まれてからはお父さんと呼んでいる。最初の頃、それはとても幸せな響きだったのに、いつか当たり前になっていた。そして少しだけ淋しい。 ぼんやりと考えながら駅に着いたとき、雨は風に溶けるミストのように小降りになっていた。 二本の傘を持って改札の側の柱に凭れる。時間がいきなりゆっくり流れているような気がする。 スカートを履いてくればよかったかもしれない。 小さな駅に電車がつく。改札から出てきた浩さんが、すぐに見つけて手を上げてくれた。 「ただいま、ありがとう。どうした?」 近づいて来てそう言った。 「どうもしないよ、一が迎えに行けってうるさかったの」 そんな風に答えてしまった。 「いや、メール」 そう言ってスマホを開けて見せてくれる。 私の携帯からの発信。 (駅にかさ持ってむかえに行くから、会社出たらメールして) こんなメール送ってない。 「知らない」 「なんだ、だから鞄から傘抜いたのかと思った」 抜いた? 「犯人は一人かな?」 どうなんだろう、でもなぜ? ミスト状の雨は、傘を差す必要もなさそうだけれど、夫は自分の傘を開いた。 「ほれ」 右手に持った傘を少し上げる。 結婚する前に何度かしたね、相合傘。 自分の傘は開かずに夫の傘に入る。近所の人に見られたらちょっと恥ずかしいけど。 「月は見えんな」 ミストの粒子が落ちてくる暗い空を見上げてポツンと。 大切な話は切り出すことができなかった。 エレベーターの中で、夫の左側がたくさん濡れていることがなんとなく嬉しかった。 「ただいま」 と言った声に、大が走り出てくる。 「お父さん!おかえりー!」 靴を脱ぐ夫をピョンピョンと跳ねながら待っている。 ピョンピョン跳ねる大を従えて、夫がリビングに入った。 「一、ただいま」 一はテレビ画面を見たまま、 「おかえりなさい」 と応えた。 ふぅと息を吐いた夫が上着を私に渡して、 「一、こっちこい」 と。 ドキドキしていた。犯人は一人だ。 でも叱らないでほしい。私は幸せだった。大切なことを切り出すこともできないくらいに。 一はノロノロと、食卓の自分の席に座る。 それを見届けて夫が口を開いた。 「まずは礼を言おう、ありがとう。おまえのおかげで久しぶりにお母さんと相合傘ができた。なかなかのプランだ。だがな、おまえは大きなあやまちをしている」 『ありがとう』という言葉に上げかけた視線を、一はまたテーブルに戻す。 「何かわかってるな?人を幸せにするのは素晴らしいことだ、だか捏造はだめだ。自分のプランを通すために、誰かが困ることを作ることは許されない」 声を荒げることはなかった。静かに子供に話しているとは思えないことを言う。 でも一はわかっている。捏造という言葉の意味はわからなくても、それが自分がしたことだと頭の中で繋がっている。一は父親の鞄から折り畳み傘を抜いて隠したことを反省している。 だから、叱らないでほしい。 「ごめんなさい」 しばらく黙ってテーブルより低く床を見つめていた一が、小さな声で言った。 「わかればいい。で、今回の企画の背景はなんだ?おまえが見つけた解決すべき問題点はなんだ?」 夫の口調や醸し出す雰囲気は、こんな風に仕事をしてるのかなあと思わせる。でも4年生にわかるのかな? 『わかればいい』と言われてからも顔を上げない一の目に、薄っすらと何かが浮かんでくる。 「ハジメ」 静かででも厳しい夫の声に、私まで泣きたくなる。 「・・お父さんとお母さんが離婚したら嫌だ!」 とても頑張ってそう言った一の目から、ぽろんと溢れた涙がテーブルの上に落ちた。
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