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 翌朝、目が覚めると、斎は隣にいた。昨日の事で疲れているのだろう、今日は朝食を作る気力もないようだ。  なら、代わりに僕が朝食を用意しよう。  そっと布団から出る。寒さで身震いをしたので、ヒーターを点けようかと思ったが、斎が起きるかもしれないのでやめた。身を切られるような空気の中、まるで氷でできたような服に着替える。この家はどうしても僕を凍死させるつもりでいるらしい。  着替え終わり、静かに引き戸を開けて部屋を出ると、なるべく音を立てないように廊下を歩いた。しかし、古い家なのでギシギシと鳴く。心底、この家は気に入らない。  なんとか玄関まで辿り着いて戸を開けると、外からさらに冷たい空気が僕にぶつかって散った。こんな家でも、人がいれば少しは温かいらしい。家に住み着いていた孤独は、しばらくは影を潜めることにしたようだ。斎を一人にすることを躊躇したが、これで少しは安心してコンビニに行くことができる。  門を出て、小さな路地を歩く。来た時よりも雪は溶け、側溝に詰まれた雪の残骸が泥水のせいで灰色に変化していた。  東京の雪は灰色だ。  斎がそう言った。都会では、排気ガスや粉塵やらで不純物を含んでいるから仕方がないと、僕は言った。斎は東京で雪が降るたびに、綺麗な顔を困らせてため息をつく。  僕にとっては、奈良の雪が灰色に変化したことが東京を連想させて嬉しかった。あまり綺麗すぎるのも良くない。一歩踏み出すたびに、汚してしまうことへの罪悪感を抱いてしまう。最初から汚れていたほうが、何も気にすることなく歩けるじゃないか。  たわいもない事を朝から考えて歩き、コンビニに入る。適当に食べ物を選び、レジに持っていった。斎は嫌がるだろうけれど、すでに調理済ものばかりを買った。  会計を済ませてコンビニを出る。来た道を辿れば、あの憎々しい家に到着だ。迷うことなんてない。なにせ、一回しか道を曲がらないのだから。 しかし、僕の視線の先にあの家はなかった。 僕の勘違いかと思ったが、何度確かめても忽然と家は消えていた。見当すらつかない。見知らぬ土地で迷うことほど、心細いことはない。それ以上に、迷うはずがない所で僕は完全に目的を見失っているのだ。人に訊ねるにも、通行人もいやしない。 「嘘だろう…?」  僕は急いでコンビニまで戻り、また同じ道を辿った。今度こそは見つかって欲しい。  切迫した感情が身体を締め付けて、違和感のある音を立てた。深呼吸をするたびに、顔が歪んだ。ずっと足元を見ながら歩く。  痛む胸を押さえつけて、思いきって顔を上げた。  広くて古い家は、堂々とそこに居た。  僕は人にからかわれることが心底嫌いだ。まさか、家にからかわれるなんて。最低な家だ。斎ごとこの世から消えてしまうつもりだったのか。 僕は急いで門をくぐり、家に入った。早足で部屋に向かい、乱暴に引き戸を開けると、斎はまだ眠っていた。  ちくしょう!本当に、気に入らない家だ。  僕はヒーターを点けて、コートを脱いだ。それから、寝ている斎の隣に座った。  雪のように白い肌と夜のような漆黒の髪。その対称的な二色を、桜色の唇が和らげていた。しかし、目覚めれば髪と同じ色の瞳がその均衡を失わせる。  何気なく手を伸ばして白い頬を撫でると、斎が目を覚ましてしまった。 「…手、冷たい」 「ああ?…悪い。朝飯を買いに外に出てたから、冷えているんだ」 「起こしてくれればいいのに」  予想どおり、斎は不満の声を上げた。コンビニの惣菜をそこまで嫌うことはないだろう。  斎は軽い身体を重そうに起こして、小さく欠伸をした。同時に身体を伸ばす。その身体に視線を滑らせていると、本人は怪訝そうに僕を見つめた。 「気色悪い。何考えてるんだか」 「うるさい。さっさと布団を上げろよ」  斎は線の細い肩をすくめた。喧嘩になると思ったが、案外素直に命令を実行した。いつもこうなら何の苦労もないのだが。  今日でこの家ともお別れだ。  明日からはまた、東京の狭い家に戻れる。空間という空間が物で埋まっている温かい家に。きっと、東京に帰れば斎も落ち着くだろう。  布団を押入れにしまうと、斎は着替え始めた。途中、寒かったのかくしゃみをして顔をしかめた。 「風邪か?」  僕は白い額に自分の額を当てた。相変わらず冷たい。熱というより、体温すらないように感じる。 「大丈夫。体は丈夫なほうだから」  斎は笑って、僕の頬に触った。  確かに、斎はこの七年間というもの風邪一つ引かなかった。身体は見た目より遥かに強靭で、病気知らずらしい。僕ですら、一年に一回ぐらいは風邪を引く。  しかし、精神はひどく壊れやすい。  何度も何度も破壊され、そのたびに僕が創り直してきた斎の精神は、昔よりは強くなってしまったのだろうか。  しばらくの間、斎は僕の頬に触れていたが、急に哀しそうな顔をして身を引いた。  僕の視線を余所に、斎は普段の表情に戻り、窓越しの庭を眺めていた。  朝食を食べ終わるとすぐに、僕たちは家の戸締りを実行した。斎はともかく、僕がこの家に来ることはもうないだろう。そして、あの人を見ることもない。  斎は名残惜しそうに、母親が自殺した部屋を見回した。  よく考えれば、斎と母親の接点はここにあるのだ。この孤独で冷たい家が、母親そのものだったのかもしれない。 「さようなら、母さん。もう行くね」  斎が呟いた。僕は斎の視線を追った。その先には何もない。しかし、斎には見えているのだ。  しばらくして、斎が僕の腕を引っ張った。 「行こう。ここには、もう、誰も、いない」  僕は黙って頷いた。 そうだ、ここには、誰も、いない。 そう思いながらも、部屋を出る時に後ろを振り返った。 あの人が部屋の中央で、初めて見た時と同じように首を吊っていた。  斎は決して後ろを振り返らなかった。僕の腕を引き、出口へと向かう。全てを振り切るように。  僕を急き立てて先に外へ追い出すと、斎も玄関を飛び出してすぐに戸を閉めた。急いで鍵を閉める手が震えていた。そして、門の外まで緊張感を連れて出ると、やはり震える手で鍵を閉めた。  僕たちは鳴沢の家からやっと脱出した。  それでも斎は震えが止まらなかったのか、突然僕に抱きついた。僕も斎を抱き締めた。 「もう大丈夫だ。何も心配することなんてない」  何に対して震えているのかわからないけれども、斎を安心させたかった。長い間、僕たちは路上で抱き合っていた。人が通りすぎても、僕は斎を放さなかった。  ついに震えが止まり、斎が身体を離した。 「ありがとう」 「どういたしまして。さあ、これからどうしようか?」 「春日大社まで歩いていこうよ。たまにはいい運動だよ」 「そうだな。それは斎に任せるよ。俺は道も知らないしね」  僕がそう言って笑うと、真っ黒な瞳が何かを要求するように僕を通り越した。 「…手をつないで歩いても、いい?」  斎にしては珍しい要求だ。 「ああ、いいよ。俺は構わない」  東京にいる時は僕を避けていたのに、斎は嬉しそうに手を伸ばしてきた。僕はその手をしっかりとつないだ。そして、僕たちは並んで歩き始めた。  永い路地を抜けて、大きな通りに出る。通りの向こう側に東大寺があると、斎は教えてくれた。杜に隠れて見えないげれど、僕は頷いた。 「東大寺の中を通っていこうか?二月堂から街全体が見れるよ」 「そんなに高い所にあったっけ?」 「うん。修学旅行の時に見なかった?」 「記憶にないなあ。そうか、行ってみよう」 「じゃあ、こっち。ここから入っていくの」  斎は楽しそうに僕を案内した。大きな池を通り過ぎて、大仏殿の裏道を歩いていく。緩やかな傾斜のある道を、僕たちは手をつないでしっかりと歩いた。この先が二月堂だと、斎が指を指した。僕は頷く。さらに林の中へと進んでいく。  手をつなぐという行為は、方向性が相手と同じになるから悪くない。心の中が解らなくても、一緒に歩いていける。どうして斎が手をつなごうと言い出したのか、わかるような気がした。  互いの息遣いだけを聞きながら歩く。道を右に曲がり、いつくかの古びたありがたそうな建築物を通りすぎると、二月堂が見えてきた。すると、突然に手から斎が離れた。 「ここの階段、急だから気をつけて」 あともう少し、手をつないでいたかった。  斎を先頭に、僕は階段を昇った。また、降りた時にでも手をつなげばいい。  二月堂の舞台に立ち、景色を見渡す。大仏殿の屋根や遠くの町並みが、ぼんやりと霞んでいた。まるで蜃気楼だ。 「晴れてると、もっと綺麗なんだけど。薄曇だから」 「そうだな。でも、いい眺めだよ。さて、降りようか?」 「もう?つまらなかった?」 「いや、そうじゃないよ。ただ…」 「ただ、何?」  見る見るうちに不機嫌になっていく斎に、僕は言葉を詰まらせた。 ただ、もう一度手をつなぎたいんだ。だから、早く下に降りてしまいたいんだ。 「何でもないよ。早く降りよう」 「…わかった」  哀しそうに俯いて、僕の横を素早く通り抜けると、斎は足早に階段を降りていった。慌てて僕も後を追う。 「斎!何を怒ってるんだよ?」 「別に、怒ってない」 「嘘つけ、顔が怖い」  白い吐息が洩れた。 「…本当に怒ってない。ただ、もう少し街が見ていたかっただけ」 「それなら、もう一度上に行こう」 「もういい。何度も見る気はない」  二月堂を降りた後、斎は哀しそうな表情をしたままだった。  僕はそっと斎の手を取った。こうしている間は全てを共有できる。斎も黙って手をつないでくれた。それでも、僕をかき乱そうとして、ガシャガシャと歩くたび地面が音を立てた。 「さて、次はどこに行こうか?」  できるだけ明るく微笑むと、斎も緊張を解いた。 「うん…。でも、帰りの予約取った?」  突然舞いこんだ現実的な問題に、僕はさっきよりも言葉を詰まらせた。 「…たぶん最終なら人も少ないだろうし、自由席ならいつだって乗れるだろう」 「ふうん。統でも忘れることってあるんだね」 「なんだよ、それ?用意周到で抜け目のない男だと思ってたのか?」 「それに近いなあ。統が失敗したところって、見たことないね」 「そうでもないよ」  今しがた、斎のご機嫌取りに失敗したばかりだ。 「なあ、どうしても実家に帰るのか?」 「鍵があるから仕方がないよ。返しに行かないと、盗んだ事がばれる」 「いや、だから…」  僕が訊いたのはそのことじゃない。卒業した後のことだ。斎はこれからどうするつもりなんだろう。推測ばかりで、確かなことなんて何一つない。きっと、たぶん。その組み合わせで、僕たちは何の保証もなく暮らしてきた。斎が言うとおり、誰も保証なんてしてくれはしない。今の生活も、これまで積み重ねてきた想いも、一瞬にして消えてしまう事だってあるんだ。  昨日、老僧が死んだように。  斎は、僕の手を離さないでいてくれるだろうか。 自然に、僕の手には力が入った。 「ちょっと、痛い。放して」 「ああ・・・悪い」  それでも、僕は手を離さなかった。 「これから、どうする?」 「若草山に沿って歩こう。その先に、お茶屋さんがあるから、そこで一休み」  斎は少し足を早めた。  他の観光客もそれなりに多い。万燈篭を見物に来た人々なのだろうか。僕たちの存在はわずかに埋もれていく。これが東京なら、僕たちはもっと埋もれていく。自分たちの存在が、小さな関わりの中でしか確かめられないくらいに。その分、他人を然程気にしなくてもよいという利点はある。だから、東京は嫌いじゃない。  不思議なのは、斎が自信を持って歩いていることだ。東京では、僕の顔をうかがっては確かめるようにしか歩かない。ここに来て、僕たちは逆になってしまった。僕はどこを歩いているのかわからないから、斎に手を引かれながら確かめるように道を踏んでいる。  東大寺や春日大社周辺を、斎は詳しく説明してくれた。しかし、僕は綺麗な横顔と、綺麗な声の旋律しか頭の中に入れていなかった。それでも時々、斎は微笑んでくれた。どうも、僕が熱心に案内を聞いてくれているものだと思っているらしい。すまないが、僕の全ては斎にだけ注がれている。他に集中している暇などない。何せ、はしゃいでいる斎は滅多に見られない。今のうちよく見ておかなければ。 「それで、そこの植物園には万葉集の和歌にちなんだ植物があるんだよ。新薬師寺に向かう道は、『ささやきの小道』って、馬酔木の林がずっと続いてる。寂しい所だけれどね」  東京では見せなかった、安らいだ表情。だから、僕も自然に顔が緩む。 「斎」 「何?」 「いいや。ただ、呼んでみただけ」 「用もないのに、人の名前は呼ぶな。馬鹿」  斎が意地悪そうに笑った。僕は肩をすくめて怒ったふりをした。 「馬鹿は余計だ」  言い返すと、斎は頬を膨らませて顔を逸らした。見ていて飽きない。  くだらない話を何度も繰り返していると、時間を忘れていく。このまま、東京に歩いて帰ることもできそうだ。無限の力が僕にあるような気がした。  痩せこけた木々が取り囲む茶屋に着くと、僕たちは昼食を取ることにした。昼時を過ぎた店はがらんとしている。緑の覆い茂る時期や紅葉の時期なら、もっと趣のある所だろうけれど、萱葺き屋根も冬のこの時期には形骸的で違和感がある。どうも現実感が沸かない。  しかし隣を見ると、嬉しそうに笑う顔がある。  僕が非現実だと感じる時は、斎は現実だと感じている。その逆も、また然り。  どちらかが夢を見ているのだ。 不確かだが、それでも一緒がいい。 僕たちは一言も話さずに食事を終えると、茶店を離れた。 やか 斎は僕の手を引き、前へと進んでいく。歩く人たちもまばらになり、昼下がりの閑散とした空気が流れていた。  どこか違う、別の場所に引きずり込まれていくようだった。そこは、引きずり込まれるという表現がよく似合う所で、そこから抜け出せる者は皆無に近いだろう。そして、とても寒いのだ。そう、斎が時々見せる、冷気に似ている。 その寒さは、斎が一歩、また一歩進むことによって、確実に何か大きな塊と化していった。 僕をどこへ連れ去ろうというのだろう? 春日大社に行く道から逸れて、より淋しい道を歩いた。 ここは、他のどの道よりも淋しい。 真っ直ぐに伸びた道は、永遠に続いているように思えた。  息が瞬時に凍って、白い煙が地上へと落ちた。 「ここが、『ささやきの小道』。初夏になると、木の葉が風に吹かれてざわめくから、そう呼ばれているんだって」  斎が声を発すると、木々が震えて揺れた。突風が裸の森を鞭打つ。 「…しばらく、ここにいてもいい?」 「ああ、俺は構わないよ」 「…ありがとう」  それから、斎は漠然と宙を見ていた。微かな吐息だけが生きている証だ。 刹那、刹那に、吐息が洩れる。 僕の息も刹那、刹那に洩れていく。  その時間、互いに握る手だけが互いを認識する術だった。
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