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七
京都駅は人々で混雑し、冬の長い夜を彩っていた。見上げるとガラス張りの天井が夜色をしている。これから、僕と斎は離れ離れになる。
斎は、ここで待っているように言った。僕も、それを承諾した。
「何時までに着く?九時頃までにはホームに入らないと、間に合わないぞ」
「わかった。大丈夫、紫野のほうだからすぐに家に着くよ。十分、間に合うよ」
「ああ…。気をつけて行ってこい」
「うん」
返事をして頷くと、斎はタクシーへと乗り込んだ。車が走り去る時も、後ろを振り返るようなことはなかった。単純なエンジン音が、僕の耳に気が遠くなりそうなほど轟々と響いた。
斎が行ってしまうと、僕は時間を持て余すことになった。来た時と同じく、地下街のファーストフード店で、近くの書店で買ってきた本を読みながら過ごすことにした。
一人で食べる夕食なんて、本当に何年ぶりだろう。虚しい食事だ。ただのカロリーの塊にしか見えない。もし、このまま斎が帰ってこなかったら、僕は毎日この味気ない食事を続けていくのか。
手を強く握り締め、斎を一人で行かせたことを今更ながら後悔した。家の前で待っていても、良かったじゃないか。時計はまだ八時半すら回っていない。あと、一時間も僕は一人なのだ。
斎は家に着いただろうか。
父親が帰ってこいと言ったら、斎は京都に戻るつもりなのだろうか。
僕から離れていくつもりなのか。
たった一時間のことなのに、僕の中で際限なく不安が増殖し、飲みこまれてしまいそうだ。食事なんて喉を通るはずがない。冷静に座ってもいられない。
僕は食べかけのハンバーガーと読みかけの本をダストボックスに捨てた。それから、待ち合わせた京都駅の正面入口に行く。
二日ぶりに煙草を取り出し、火を点けた。一口吸うと、いつもより苦く感じた。灰はハラハラと虚しく落ちていく。まるで東京の雪のように。
全てが切なくて、身体がバラバラになりそうだ。
ふと、外に意識を向ければ、夜空から白い花びらが舞い落ちて、人々に嘆息を吐かせている。冬の夜が静寂を広めようと必死だから、賑やかな街が静物画のようだ。
無為な時間だ。そう感じるから、僕には現実が映らないのだ。斎といる時間が、僕の全てだ。自分でも、なぜこれだけ執着するのかわからない。正しい正しくないの問題ではない。それが僕の全てだ。
気が狂いそうな想いは、確実に僕を現実から引き離そうとしている。それでも、僕は必死に現実にしがみつかなければならない。そうしなければ、斎をこの世に留めておくことはできない。
斎の美しさの源は、危うく揺れ動く心身にある。あの美しさを失うぐらいなら、不安定なままで結構だ。精神衛生など知ったことではない。
僕はそのためだけに強くなった。僕がバランスを取ればいいだけのことだからだ。綺麗な斎を見たいのなら揺り動かしてやればいいし、危ないと感じたら支えてやればいい。
完璧な人間なんていやしない。僕は学生の頃から、品行方正だと言われてきたが、実際に違うことくらい、本人がよく知っている。
しかし、斎は違う。完璧な綺羅だ。僕はそれをひたすら手に入れたい。あと少しで手に入るはずなんだ。
白い花びらが一段と激しく散り始めると、僕の肩にも降り積もった。積もる花びらもあれば、消えてしまう花びらもある。消え逝く様は、寂しすぎるの一言に限る。
行き交う人々も何かしら感じるところがあるのか、切なそうに白い息を吐く。夜も九時近くになれば、人並みも落ち着きを払い、深々とした時間をひたすらに歩いている。立ち止まっている僕とは大違いだ。
苛々する。僕の隣にいるはずの斎が、今はいない。
何本目かわからない煙草に火を点ける。灰が落ち、地面を汚す。僕の周りだけ灰色の雪が降る。僕の周りだけ汚く散らかっている。ここだけが東京になる。
僕の生まれた、東京。僕と斎の密やかな生活を覆い隠してくれる、東京。汚い僕のままで許される、東京。
ああ、こうして僕は生きていくのか。こんなにも狂っているのに。
もう一歩も進むことができない。
ああ、こうして僕は死んでいくのか。こんなにも力強いのに。
自分を見失わないようにコンクリートの地面を踏み締めると、時計を見た。九時五分。斎まで、あともう少し。
タクシーの乗降場を見る。赤いテールランプが連なっている。降りる人よりも、乗る人が多い。自分の白い息が視覚に入ると、僕は苦しくなった。ため息を直視する冬なんて、忌々しいことこの上ない。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
ため息を数えてみる。僕はこんなにもネガティブな人間だっただろうか。
タクシーが通りすぎるたびに、カウントを一つ、また一つと増やしていった。僕の全身から酸素が抜けていく。
吐息、瞬き、言葉、日常。
僕の途切れ間を埋めてくれ。
立っていられなくなって、僕は冷たい壁にもたれた。白い花が未練がましく僕の顔にしがみつき、緩慢に凍っていった。
雪逝く、花ふる里に、留まる胸。
高校時代に斎が詠んだ唄を思い出し、僕はそれを呟いてみた。ああなるほど、こういう感覚か。
もう一度時計を見る。九時十五分。
「斎…」
呟いても独りだ。
それでも、何度でも呼ぼう。ガラスの駅を粉々に打ち砕いてしまうくらいの声で叫んだっていい。
十回目のコールで、一台のタクシーが止まった。僕は冷たい壁から急いで離れた。
十一回目のコール。叫ぶように強く。
「斎!」
斎はタクシーを降りると、真っ直ぐに駆けてきた。そして、僕に抱きついた。
僕の胸に斎が留まる。
かなり理不尽だ、いつも僕を困らせて笑わせる。感情を踏みつけるくせに、行く先々で僕を包み込んでくれる。
僕は笑った。たぶん、幸せだったのだろう。
「おかえり」
「ただいま」
斎の息が、僕の胸に降りかかった。
最終より二本前の東海道新幹線に乗り込むと、斎は静かに話してくれた。列車が走り出すように、ゆっくりと。
「父親が、『出来損ないはどこにでも行け』だって。殴られなかったし、怒鳴られなかった。こんなふうに、昔からもう終わっていた事を確認するのは、とても哀しかった。ずっと前から知っていたけれど、哀しかった。だから、とても静かだった。でも、終わったんだ…」
「ああ」
「姉さんは哀しい顔をしてた。でも、引き止めようともしなかったし、泣かなかったよ。ずっと前から知っていたんだね。終わってしまう事を。だから、とても静かだった。でも、終わったんだ…」
「ああ」
「二人が幸せになればいいと思う。笑ってくれればいいと思う。もう二度と帰らないから。だから、終わったんだ…」
「ああ」
斎が終わりを告げた理由が、僕にもよくわかった。
斎はあの人だから。
だから、僕は頷くだけだ。
「東京に帰るんだね。こんな真っ暗闇の中を走っているのに、どこに行くのかわかるって嬉しいね」
「ああ」
「着いた先が東京じゃなかったら、どうしようか?」
「ああ」
「二度と帰れなかったら、どうしようか?」
「ああ」
「怖くない?」
「ああ」
斎、聞いて欲しいことはたくさんあるんだ。僕がどれほどの不安を抱えているのか、どれほどの想いを秘めているのか、どれほどの真実があるのか。
君は瞳に万物を映さず、そして瞳に見えるものしか信じない。
せめて言葉にさせてくれ、僕を信じてくれ。
「斎、東京に帰るんだ」
「うん」
「着いた先が東京じゃなくても、そこで生きていこう」
「うん」
「二度と帰れなくても、そこで生きていこう」
「うん」
「もちろん、一緒に」
「…うん」
返事は、遠い昔に願いを込めた流れ星のように通り過ぎる。でも、その想いだけは僕に、斎に染み込んでいく。
ガタンガタンと揺れ行く中で、僕たちは眠った。
沈んでいこう、どこに落ちるかわからないけれど。
帰るのは僕たちの街だ。
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