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八
大学を卒業しても、僕は相変わらず板橋区の地上五階に住んでいる。
毎日のように朝七時に起き、本能のように会社に行き、泥のように午前零時に帰ってくる。朝食は時間がなくて、夕食は疲れ果てて、昼食しか食べられない生活。
そんな生活はどこにでも転がっているから、自分が不幸だなんて思わない。家賃の心配をしなくていい分、他の新入社員よりは恵まれているのだろう。
斎は、こんな僕に向かって何と言うだろうか。
斎はいなくなった。
あまりにも普通にいなくなったものだから、帰ってくるものだと思っていた。
大学の卒業式の日。僕と斎は別々の大学に通っていたが、卒業式なんてどこの大学も同時期に行うものだ、偶然といえるほどでもないが同じ日に卒業式だった。
大した感慨もない、大学で学んだ事は就職先では役に立ちそうもない、卒業したからといって明日が豹変するわけでもない、ないない尽くしだ。それで充分だった。
斎はいなくなった。
僕の何もかもを滅茶苦茶にして、消えた。
卒業式が終わって、打ち上げに行って、夜遅く帰ってくると家は真っ暗だった。首を傾げながらも、斎の部屋に行った。変わったところなんて何一つなかった。今朝、脱ぎっぱなしにしていったシャツも、飲みかけのコーヒーも、そのままにしてあった。
日常はそこに置いてあった。
どこをほっつき歩いているのだろう。斎は大学にも友人がいないから、飲みに行っているということはまずありえない。時々、斎は遠くまで散歩をしていたから、その延長だと思っていた。それでも、一晩中起きて斎の帰りを待った。
朝日がリビングに入りこむまで、僕はずっと真っ暗闇の中にいた。静かな深海が、穏やかな顔をしながら僕をじっくりと痛みつけているとも知らずに。
残酷だった。
小さな疑惑がどんどん膨らんでいき、はっきりとした形になって僕の体から飛び出した時は。
「ああっ!」
朝日が差し込んだ瞬間、斎がいなくなったことを実感してしまった。
本当に、あまりにも普通に坦々と時間が過ぎていったものだから、自分が凍っていたことも気づかなかった。
だから、とても静かだった。
凍りついた僕からは涙も出なかった。
僕は斎の選んだカーテンにしがみつき、全体重をかけた。
いなくなる予兆はあったのかもしれない。
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