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九
奈良から帰ってきて、もう二週間ほどになるが、斎は普段とあまり変化はない。明るくもないし、優しくもないし、悲しそうでもない。覚悟していた分、そんなに衝撃はなかったようだ。
あの街では、狂ったものが僕たちを取り囲んでいた。何一つまともじゃなかった。斎と少し離れただけでも、僕は壊れかけた。しかし僕とは反対に、斎は馴染んでいた。
斎が狂っているのか、僕が狂っているのか。
僕はこの頃、夜寝る時に斎と話をするようになった。暗い部屋で電気スタンドの明かりを頼りに、小さい頃の話や両親が逝ってしまった時の話、それから今の状況や悩み、将来の夢や希望を。
斎は静かに隣で頷いてくれた。
僕が話すから時々、斎も話してくれた。
ずっと遠くにある不思議な国の話を。
そこでは誰もが泣いていて、誰もが笑っているのだそうだ。そして、皆で一斉に死に、皆で一斉に生まれるから、そこには生死の概念がないと、斎は言った。
斎は自分の事を決して話さなかった。注意深く、その要素を削ぎ落としていた。
柔らかい枕に顔を埋めて、斎は囁くように話す。
「それでね、その国では夜空が下にあって青空は横にあるんだ。上にはずっと、雪雲が待ち構えていて、花を降らすために必死なんだ。だから、花は冷たい。みんなが一斉に死んだ時に誰も生き残らないように、毎日降り続ける。そうして、みんなが一斉に生まれる時には、花雲がどこからともなくやってきて、雪を優しく降らすんだ。だから、雪は温かい。
そこでは誰もが独りで、誰もが一緒に暮らしているんだよ」
僕は苦笑しながら頷く。
「そんな暮らしをしていて、誰か疑問に思わないのかな?」
「疑問?どうして?」
斎が顔を上げた。電気スタンドの光が、白い頬をマーマレード色に染めている。
「例えば、『もっと生きていたいんだ』とか」
斎は少し困ったような顔をした。
「だって、誰かが生き残ってしまえば誰かが泣かなくちゃいけないし、誰かが死んだ時に生まれる誰かがいたら、誰かが笑わなくちゃいけないでしょう?それって、とても辛いよ。だから、雪雲と花雲が交代で空に待ち構えているんだよ」
「そんな事はこの世に溢れてる。今、俺たちは温かいベッドの中にいるけど、どこかで寒さに震えている奴らもいる。裕福なまま死ぬ人や、スラムの片隅で生まれる子供だっている。それにいちいち付き合って、辛いと言っていたんじゃあ身が持たないぜ?」
「それは少し、無感動だね」
「それをいうなら無関心」
「違うよ、そうやって色んな事に無感動になっていくんだね。いつ泣いたりするの?いつ怒るの?いつ笑うの?いつ安心するの?そうやって無感動になるのは良くない」
そうしなければこの世界では強くなれない。
わかっているのか、斎。この世界はとんでもなく残虐性に溢れている。その中で、たった一人でも守っていくことは難しいんだ。
「ああ?俺、そんなに無感動じゃないぜ。いつもお前には感情的だろう?」
「…きっと、一歩外に出たら無感動なんでしょう?それが心配なんだ。たしかに、生死も泣き笑いも、そんな事はどこにでもある。今だって横にある。だからって、そんなに無感動にならないで。そんな孤独な人、見た事ないよ」
僕が、この僕が孤独だって?
それは斎、君のことだろう。
「全然平気だと思っているでしょう?違うよ、気づかないだけで本当は辛いんだ。だから考える事をしなくなっただけ。それが心配なんだ」
僕の心配より、自分の心配をしたらどうだろう。そこまで言われると、腹が立ってきた。
斎は僕の中に自分を見ているのだ。
「別に、それが本当だとしても俺はそんなに弱くない」
「強い弱いの問題じゃないよ、よくわかるんだ。そういう態度は狂っていく」
「よくわかる?じゃあ、斎は狂っているのか?」
「…この頃、それが怖い」
「怖い?」
「…この頃、よく話してくれるよね、自分の事。どうして?」
「それは、斎に聞いて欲しいからだ」
「他に聞いてくれる人はいないの?」
「聞いて欲しい人がいないんだ。あのなあ、俺に何を言わせたいんだ?」
「他の人に話して!もっとたくさん、他の人に話して!」
斎は強い口調で言った。
どうしてだ?僕は斎以外の奴らに、自分を知って欲しいなんて思わない。斎だけに知って欲しいんだ。言葉にすらさせてくれないのか。
さすがに言葉が見つからなかった。このまま話し続ければ、朝まで喧嘩だ。
「…もう寝よう」
明日になれば、斎も落ち着いてるだろう。
斎は僕を睨んでいたが、やがて諦めたように小さくため息をついた。
たとえ、世界に斎一人しかいなくなったとしても、この世界が何十億人という人で混雑しているとしても、僕は何の不自由も感じない。こうして二人で眠る事ができるのなら。そう思うことの、どこがいけないんだ?
僕は斎の言葉を聞くべきだった。
たぶん、斎は探しても見つからないだろう。そのために全てを置いていったのだから。
捜索願いを出そうと思ったがやめた。まず犬神の家には知られてしまうし、僕たちの日常を詮索される。それだけはごめんだ。
僕は斎がいなくなった日から、新聞には事細かに目を通すようになった。もしかしたら、という最悪の想像が何度も暴れ回った。しかし、『犬神斎』の名前はどこにもなかった。
始めからこの世界には存在しなかったように。
僕は妄想の中で斎を育て上げ、一人二役を演じていたのではないだろうか。
こんなにも狂っているのだから。
斎、一体どこにいるんだ?
朝起きると最初に呟く。隣を見て一つ、リビングに行って二つ、家を出る前に斎の部屋で三つ、カウントしながらため息をつく。僕の全身から酸素が抜けていく。
吐息、瞬き、言葉、日常。
僕の途切れ間を埋めてくれ。
今日という日の残虐を、鍵を締めて閉じこめる。そして、階段で影を蛇腹に折りながら地上へ降り立つ。東武東上線大山駅に向かい、僕は自分を押し込める。
ガタンガタンと揺られ行くけれど、僕一人だ。一緒に落ちようとした人は、隣にいない。
それなのに、どうして僕の周りにはこんなに人が溢れてるんだ?
僕は、僕がいなくなったら斎は必ず死ぬと思っていた。そうあるべきだとすら思っていた。
しかし、斎は生きている。この世界のどこかで生きている。
僕は、僕がいなくなる前に斎を絶対に殺すべきだと思っている。そうあるべきだとすら思っている。
だから、僕は生きている。この世界のここで生きている。
君がいなくなったら、僕はいつまでたっても死ねないじゃないか。
斎、この頃、僕の心に雪が降るんだ。雪がこんなにも温かいなんて思わなかった。
斎、君の話が聞きたいんだ。君がどれほどの不安を抱えているのか、どれほどの想いを秘めているのか、どれほどの真実があるのか。
僕は瞳に万物を映し、そして瞳に見えないものを信じようした。
君の言葉を聞くべきだった。
斎はいつも話そうとしていた。自分の迷いや想い、昨日の事、これからの事。なのに僕は、その口から出てくる言葉が怖かった。だから、すぐに斎の言葉をかき消してしまった。そして、同じように自分の言葉をかき消した。
僕たちの日常がかき消されないように。
現実を知ることが怖かったんだ。ずっと、こうしていたかった。
池袋駅で降り、丸の内線に僕は自分を押し込める。
会社に入って、何人かの友人が出来た。僕はその何人かに話す。昔の事や今の状況、これからの事。多くの人々が僕を知っていて、いくつもの答えが返ってくる。僕の堅固な心が溶けていく。強くなったと思ったら、昔に逆戻りだ。ここまで溶けてしまうと、もう自棄に近いのかもしれない。
それでも僕は、決して斎の事だけは話さない。
斎、自分自身の暗くて重い問題に結論が出たら帰って来い。いなくなった理由は、根本的にそこにあるんだろう?
君は言った。『犬神斎』がきちんとした人間だったら、と。
しかし、正常なんて誰が持っている?僕だって正常とは言いきれないんだ。瞳に映るものに惑わされる奴らが問題にすべきであって、君が問題にすることじゃない。
瞳に映るもの以外は、それぞれの妄想なんだろう?瞳に映るものしか信じない、斎。
東京駅で降り、八重洲中央口を出て、僕は社会の足かせをはめて歩く。
僕はあの家から消えたりしない。だから、自分自身に結論を出したらすぐに帰って来い。
約束する、僕は瞳に映るものしか信じない。たとえ明日死んでしまっても、僕は後悔しない。
約束する、僕は二度と凍ったりはしない。
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