2人が本棚に入れています
本棚に追加
東海道新幹線に乗っても、斎は黙ったままだった。焦点を合わすことなく、走り去る風景を無機質に眺めている。
その態度が気に食わなかったので、髪を触ったり耳を引っ張ったりと、何かと仕掛けてみたが、斎はそっぽを向いたままだった。
しばらくして、電車の揺れが心地よかったのか、寝息を立て始めた。僕も同じように眠りたかったが、二人一緒に眠るのは無用心だ。仕方なく、何かを睨みつけるように、必死で目を開けていた。
僕は一体、何をしているのだろう。
斎だって子供じゃあるまいし、一人で旅行ぐらいできる。自分が斎の何を心配しているのか、時々わからなくなる。たぶん、僕のほうが不安を感じているのだ。
僕は何を、不安に思っているのか。
数限りのない不安を、僕は持て余し、何ら解決する努力もせず目を背けていた。それはもう、不安という概念ですらない。冷蔵庫にいつまでも放って置かれた、腐って形を喪失した豆腐のようなものだ。匂わなければ、害さえなければ、構わない。
不安なんて、そんなものだろう?
意味のない一人問答を繰り返し、斎の寝顔を観察しているうちに京都に着いてしまった。二時間という区切られた無為について、僕の神経は何の関心も寄せない。しかし、心は列車の止まる金切り声に悲鳴を上げそうだった。
不安なんだ、とても。
僕は、気持ち良さそうに寝ている斎の鼻をつまんだ。斎は苦しそうに顔を歪めて起きると、小さな欠伸の息音ともに伸びをした。その仕草が猫のようで、僕は笑った。
「何?」
刺々しい声が引っかく。僕はすぐに笑顔を隠して平常の仏頂面に戻した。斎は不満そうに席を立ち上がると、僕を通路のほうに押しやった。
京都に着いた僕たちは、駅地下街にあるファーストフード店で昼食をとることにした。
斎は京都に足を着けてから、少し落ち着きがない。フィッシュバーガーを食べながら、辺りを警戒している。父親との折り合いが悪くて、京都を嫌悪していることは知っていたが、ここまで極端になると僕まで京都を不快に感じてしまう。今にも周りの人が全員追いはぎに変わって、僕たちを襲うのではないかとさえ思えてくる。
斎には姉が一人いるが、その人には気を許しているらしい。たぶん、母親のような感じなのだろう。もしその人がいなければ、とっくの昔に家を捨てていたに違いない。
長い間、斎の視線は嫌悪と混乱で彷徨っていたが、不意に真正面にいる僕を捕らえた。
斎の瞳はいつも恐ろしいほどの黒を湛えている。僕はその瞳に弱いのだが、僕を本当に見ようとはしない。互いに視線を合わせている時でさえ、僕は眼中にない。万物を通りぬけてしまうのだ。通りぬけて、遠い彼方を見ている。何もない彼方を。
時々、不安になるのだ。斎の中では僕という人間は存在していないのではないかと。僕はここにいると、どんなに訴えかけても、斎は何の反応も示さない。出会ってから七年間、斎は僕の過去も現在も、そして未来のことを訊いたりはしない。斎にとって僕は、ただそこにあるオブジェに過ぎないのかもしれない。
「出よう」
静かな、それも拒絶を許さない強い口調が出発を告げた。
地下街を出て京都駅構内に再び入り、奈良線のホームに向う。時間に息詰まっているわけではなかったが、電車が着くと早々に乗り込んだ。
斎は決して、後ろを振り返らなかった。
僕はちらりと、プラットホームに視線を向けた。そこには、知らない顔が幾重にも重なり、乱れ、際限のない声が渦巻いていた。
電車が緩やかに走り始めると、斎は安堵したように僕の腕をつかんで重い息を吐いた。深海の人魚姫が地上で初めて吐いた息のように、重い吐息だった。
僕たちは空いている席を探して座ると、今度は二人で深海に沈んでいった。
誰もこない深海。周りの音が消え、風景が消え、乗客が消え、僕と斎の息遣いだけが遠くの波音のように聞こえた。
最初のコメントを投稿しよう!