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奈良に入ったところで、僕は深海から浮き上がり大きく息を吐いた。時計を見ると、大した時間も経っていない。窓の外には雪が降り出していて、斎の予想どおり、奈良には雪が積もり始めていた。  斎はまだ長いまつげを降ろしている。僕がいるから安心して寝ているのだろうと思うと、口元がほころぶ。  電車が徐々にスピードを落とす。僕の心もここに引き留めるように。  プラットホームには立ち止まる人ばかりだが、本当に立ち止まっている人なんていない。僕たちは走っているようで、立ち止まっている。  奈良駅に着き、斎を揺り起こして電車を降りると、重い灰色の空が僕たちを迎えた。ちらちらと花のように降る雪が少し僕を苛立たせる。全てを消し去ろうとするから、昔から雪は大嫌いだ。  駅前でタクシーを拾い、佐保川沿いに向かう。中学の修学旅行以来、僕は奈良を訪れたことはない。東京生まれで東京育ちの僕は、関西については無知である。道案内は斎に任せるしかない。この頼りなげな人物が僕の頼りなんて。  斎は京都生まれの京都育ちだが、なぜか標準語を話す。理由は訊いても教えてくれないだろうから、質問しないことにしている。  黙る僕に気を使ったのか、綺麗な標準語で斎は少しずつ話してくれた。 「母親の実家は、父親が管理している。今は誰も住んでないよ。時々、犬神の客が泊まる以外は使われない、古い家だよ」 「家の鍵は?」 「正月に帰った時、盗んできた」 斎は意地悪そうに笑った。今日、笑ったのはこれが初めてだった。  十五分ぐらい乗っていただろうか。大通りから狭い路地に入ると、タクシーはある一軒の家の前に停まった。斎が代金を支払い、僕は先に車の外に出てその家を目に取り込んだ。  斎の母方の実家というのは相当に古い建築物で、かなり広くて立派だった。門構えが見る者を圧倒している。庭から伸びた松の木が、門の屋根に来訪者を監視するように睨みを効かし、隣に生える紅葉の大木が家の屋根に影を落としているのも圧巻だ。まるで日本家屋の見本市だ。塀に囲まれた外見だけでも飲まれているのに、さらに家の中に入るのかと思うと、ただ息を飲むしかない。  しかし、氷に閉ざされた海中のような、重く暗い家だ。  走り去るタクシーの音で我を取り戻すと、慌てて後ろを振り返った。そこには斎しかいない。なんだか置き去りにされた感じがした。  斎は茫然とする僕を半ば無視して、門の鍵を開けた。そして、視線で僕に先に入るように促した。僕は緊張しながらも門の敷居をまたいだ。斎も内に入り、門を静かに閉ざす。  完全に世界から隔離されたようで、僕は顔をしかめた。 「斎はここに一人で泊まるつもりだったのか?」 「そう。変?」 「いや…ただ寂しい家だなと思ったからさ」 「怖いの?」 「大丈夫だ」  斎は弱々しく笑った。僕の表情を確認してから、家の鍵を開ける。ガタガタと鳴る古い引き戸を開けると、中から冷たい空気が外に向かって一気に吐き出された。斎の黒髪が儚げに揺れる。 「まるで家がため息ついたみたい」 「家のため息?」 「孤独のため息」  僕の顔を見て、斎はまた弱々しく笑った。  玄関を上がって奥に進むと温度はさらに低くなり、寒さで身震いをした。人がいない家というのは、凍てつく空気を持っているのだ。僕も昔、斎に出会う前まではよく経験していたからわかる。  家の中は、人が住んでいないのにもかかわらず小奇麗だった。僕が不思議そうに部屋を見回していると、斎が雨戸を難しい顔で開けながら言った。 「月に一回、掃除してもらっている。すぐに使えるように。暖房もすぐ使えるよ」 「なるほど。いやに片付いているから、幽霊が掃除しているのかと思った」 「幽霊?誰の?」  開けた雨戸からの逆光で、僕は斎を見失った。ぼんやりとした人の輪郭だけがそこにあって、それが斎と確認できるには時間が必要だった。 「斎?」  僕が呼んでも、斎は返事をしなかった。しばらくして目が慣れてくると、やっと斎を見つけることができた。  斎は恐ろしく無表情な顔で、こちらを見つめていた。人形のように動きを止めて、僕の言葉を待っていた。斎が全ての音を封じこめたらしく、家の中は静まり返っていた。  僕は生きている証を示すために、わざと大きく息を吐いた。 「誰の幽霊ってわけじゃないけど、何となくそう考えただけだ。冗談だよ」 「ここで自殺したんだ。母さん」  斎はゆっくりと近づいてきた。歩くたびに氷が割れるような音を立てて、床が軋んだ。 僕の腕をつかみ、自分のほうへと引き寄せた。その行動をよく理解できなかったが、僕は引っ張られるままに斎の隣に足を進めた。 「今、ちょうど立っていた所。そこの上の梁にロープをくくって、首つり自殺」  途切れ途切れの言葉が、僕を息詰まらせる。死に対する嫌悪感からじゃない。自殺した母親を最初に発見したのは、斎だと聞いていたからだ。  ふと隣を見ると、斎は茫然と宙を見ていた。いや、僕にはそう見えるが、漆黒の瞳は何かに捕らえられていて、視線を逸らすことができないのだ。  とっさに、僕は斎を抱き寄せると自分の体で視線を遮った。 「斎…」 「大丈夫だよ。心配ない。もう昔のことだし。今は、誰も、ここには、いない」  僕の胸の中で千切れた言葉が響く。斎の体は冷たくて、僕の熱を奪っていった。  もし、僕たちがこのままここで凍死してしまっても、世界中の誰も気づかないだろう。そう思うと、斎を強く抱き締めずにはいられなかった。 「ちょっときつい。離して」  斎は僕の胸を両手で押した。僕もゆっくりと腕を離す。 「寒い?」  突拍子もない質問に、僕は意表を突かれてすぐに言葉が出なかった。 「震えてたから」  斎は完全に僕から離れて、部屋の隅にあったヒーターの電源を入れた。  僕が震えていた?違う。震えていたのは、斎のほうだ。  突然、焦げ臭い温風が顔に当たり、思わず顔を強張らせた。斎が可笑しそうに吹き出す。 「…そんなに変な顔してたか?」 「ごめん、ごめん。困った顔なんて滅多に見られないし。いつも冷静だから」 何もわかっていない。冷静に見えるからといって、冷静でいるわけじゃない。僕はただ、黙ることを覚えただけだ。斎は僕を知ろうとはしない。その証拠に、今は庭先を見て別の話題を考えている。 「知ってる?節分の日にさ、春日大社で『万燈篭』っていう行事があるんだよ」  そら来た。 「知らない。それを見に来たのか?」 「そう。綺麗なんだ。燈篭の炎が延々と連なってさ」  何を考えているんだ?そんな行事のために、こんな場所に来るなんて。いつでも嫌なことから逃げたがるし、目を背けていたじゃないか。  僕の知っている斎は、絶対にそんな行動はしない。
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