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 朝食を終えた頃、ちょうどタクシーは到着した。慌てて準備をして、凍った家から飛び出すと、車内へと飛び乗った。目的地はあの人が眠る場所だ。  早送りされる風景を見つめる斎は、思ったより落ち着きがあった。僕としては、あまり死を連想させるような所には斎を連れていきたくはない。特別な境界線上で揺れ動く斎にとっては、誘惑に近いからだ。行き先を変更できるのなら、東京と即答している。東京に帰りたい。少なくともそこには、僕たちの日常がある。  ここは異空間だ。時が切り刻まれて、太古も現代もバラバラに散らばっているような景色。そして、真っ白な雪が恭しく降り積もる街。何もかもが、僕のリズムに合わない。 東京は電車が時間を運んできて、人々を連れて行き、また連れ帰る。明確なものしか許さない。容赦なく灰色の雪はすぐに溶けてしまう。何もかもが僕のリズムに合っている。 僕を不安にさせる街。いつも感じている不安とは異質の、確固とした形をつくろうとする、恐ろしいほどの不安だ。それに呼応しているのか、車はどんどん山奥に入っていく。道も心なしか狭くなってきている。雪が積もっているために、道路の境界線がどこにあるかもわからない。天理に向かう道を左に曲がってから、僕の身体は間違いなく世界を浮遊している。どこにいるのか確認できない。全てが気に食わない。 「一体、ここはどこなんだ?」  斎が風景から視線を外し、僕に向けた。 「知らなくていいよ。どうせ二度と来ることはないんだから」 「…いつもこの時期に墓参りなんてしてなかっただろう?」 「毎年、母さんの命日に墓参りを欠かしたことなんてないよ」  斎は乾いた声で笑い、僕の腕をつかんだ。そして最後にため息をついた。  これまで、二月に斎が実家に帰ったことなんて、断じてない。嘘をついているのは明白だが、これ以上喧嘩を繰り返すのは面倒だ。疑われていることは知っているであろう斎は弁解の一つもしない。 「ほら、見えてきた。あれが鳴沢の墓があるお寺」  真正面を見ると、世界に排除されてしまったような寺が緑の中から忽然と現れた。 「鳴沢?」 「母さんの実家の苗字。鳴沢の一族は、もう誰もいないよ。みんな、いなくなった」 「誰もって…そんなことはないだろう?」  そんなことはありえない。僕は吐き気がしてきた。運転手も顔をしかめて、ルームミラー越しにちらりとこちらを見た。次の瞬間、車の動きが止まる。 「着きましたよ」  運転手が無愛想に到着を告げた。  二時間後にまた迎えに来るように頼むと、僕たちはタクシーを降りた。走り去るエンジン音がこの世で最後の音になるかもしれないと、じっと聞き耳を立てた。 斎などは、よほどこの世に未練がないのだろう。そんな人寂しさの素振りも見せずに、寺の階段を昇っていく。すぐに僕も後に続いた。  母親の墓があるという寺は、あの佐保川沿いの家と同様、凍えるような空気が漂っている。観光に訪れる奇特な人もいるまい。  石段は人一人が通れるぐらいには除雪がなされている。こんな辺鄙な寺でも管理する人がいるのかと、感心した。さすが坊主だ。しかし、よほどの人嫌いに違いない。でなければ、誰が好き好んでこんな所で修行するだろうか。  石段を一段二段と昇りながら辺りを見渡す。やるせなさばかりが転がっている。もうたくさんだ。  昇り終えると、さらに除雪された雪道が境内へと続いていた。それなりに立派な門をくぐる。 「こんな所でも、人がいるんだな」 「そうだね。墓地もあるし、誰かが管理しないと」  斎は僕の手を取り、先へと引っ張った。僕は素直に従った。雪の道を歩き、境内の隣にある小さな家に辿り着く。斎は雨戸を叩いて、家人を呼んだ。 「慈英(じえい)さーん!こんにちは、犬神斎です」  何度か同じ挨拶を繰り返していると、雨戸が壊れそうな音を立てて開いた。現れたのは年老いた僧侶だった。老僧は、斎を見るなり懐かしそうに微笑んだ。 「おお、おお!斎か。元気にしとったか?」 「ええ。どうにか暮らしています」  老僧が斎の頭を撫でて、嬉しそうに頷く。斎も照れたように笑った。  珍しいこともあるものだ。人を寄せ付けない斎が、これほどまでに親しげにしているのは不思議な気分だった。  僕が面食らっていると、老僧は視線をこちらに向けて微笑んだ。その瞳は、斎の瞳とよく似た暗闇を持っていた。 「お前さんは、斎の友達なんか?」 「ええ、そうです。初めまして」 「ほうか。斎も、ええ友達ができたんやなあ」  そして、老僧は何を思っているのか僕の頭まで撫でた。僕は恥ずかしくなって、俯いてしまった。斎は隣で笑いを堪えて震えている。子供じゃあるまし、嬉しくなんかない。朝といい今といい、何なのだろう。今日は子供扱いされる日なのだろうか。だとしたら間違いなく厄日だ。老僧はいつまでも僕の頭を撫でている。  戸惑っていると、斎が耳打ちした。 「慈英さんは、少し心が弱いんだよ。でも、とてもいい人。とても純粋な人」  なるほど。断然、斎の瞳のほうが綺麗だが、こちらの老僧の瞳も捨てたものではない。  老僧の瞳には何も映っていない。まるで、斎が僕を見る時のように。  いつまでも撫でられているわけにもいかないので、適当なところで僕たちは墓地へ行こうとした。すると、老僧は哀しげに呻き声を上げ、手を伸ばしてきた。  斎は優しくその手を握り締めた。 「墓参りに行ってくるだけだから。また戻ってくるから、少しだけ待っていて」  老僧が安堵のため息を漏らす。 「ほうか、ほうか、あとでなあ、お茶を用意しとくからなあ」  重い腰を上げて、老僧は家の奥へと消えた。  僕たちも、当初の目的どおりに墓地へと向かった。  墓地は、きちんと除雪がされて小奇麗にしてあった。今は、周りを取り囲む木々が何もつけていないから明るいが、五月頃に来たら間違いなく鬱蒼とした暗い場所だろう。檀家は少ないのか、墓は数十体ぐらいしかない。しかし、そのどれもが立派な墓石だ。その一番広い一画に、墓石が三つあった。斎はそこで立ち止まる。どうやらこれらが『鳴沢家』の墓らしい。  一つ一つ、新たに降り積もった雪を丁寧に払い落とし、手を合わせる。 「なあ、花とか線香とか買ってきておいたほうが良かったんじゃないか?」 「いいよ、そんなの。犬神の人間にやらせとけば。彼岸になれば誰かがやってくれるよ」  抑揚のない声が辺りに響く。  いくつもの墓石が並んでいる場所にいると、死がすぐ隣にあるような気がする。一歩踏み出すだけでも、死んでしまう可能性だってある。真剣に墓石を見つめている斎の隣にだって、死はあるのだろう。  思わず、斎のコートをつかんだ。斎が驚いて、こちらに振り返った。 「…寒くないか?」 「ちょっとね。でも平気」  綺麗な顔が綺麗に微笑むと、僕は手を放した。斎も再び、墓石へと視線を還す。  僕は墓石の後ろに回り、下に埋没されている人々の名前を指で確かめた。 『鳴沢の一族は、もう誰もいないよ。みんな、いなくなった』  絶縁状態にある僕の親戚だって、まだ世にはばかっている。そんな簡単に死に絶えるわけがない。  冷たい墓石を指でなぞり、名前を確かめていくうちに、奇妙な点に気がついた。  新しい墓石の人々だけ、それぞれの死亡時期が集中しているのだ。夢中になって何度も何度も確かめる。 どう考えたっておかしい。たった五年間のうちに、一つの家で人がこんなに死亡するなんて。事故に合ったとしても、偶然ではとても無理だ。  耳鳴りがする。吐き気もする。  いつのまにやら斎が隣にいた。消え入るような白さを持つ指で、僕がしたように刻まれた文字をなぞり始めた。 「・・・五月五日、叔父一家がフグ毒で全員死亡。そのニ年後の八月九日、叔母の家が炎上、一家全員死亡。そしてまた翌年の十一月二十七日、祖父母と両親が交通事故で死亡。結果、生き残った一人娘に総額十七億円の保険金と遺産が入る。その翌年、娘は犬神家に嫁ぐ。それから十年後、鳴沢家最後の生き残りも自殺で死亡」  恐ろしいことを、斎は平然と言い放った。  そして、不意に僕の首に手をかけた。力を、儚く幻のような力を、徐々にかけていく。僕の喉が少しずつ、その呼吸を止め始めた。  これは現実なのか?  斎は何の感情もなく、僕を見ていた。感情ではない、何かおぞましい、醜悪な塊が斎を支配しているようだった。  斎は昔、僕に言った。『犬神』の家には、憑き物筋であるが故の呪縛があると。どんなに家から離れようとしても、それは『犬神』の血を引く者全てに陰鬱な力を与えると。  それでも、僕は構わない。  僕は少し微笑んで、苦しそうに息を吐いた。すると、斎は急に、怯えたように手を引っ込めた。そして、冷たい息を吐き出した。 「…だから、鳴沢の家には、もう誰もいないんだよ」  僕は唇をかんだ。時期がずれているのは、その必要があったからなのだ。  斎は続けて言った。 「ここはね、『犬神』の罪が埋めてある。罪を増やすことによって、『犬神』は栄えてきた。罰もなく、許しもなく、理不尽に『犬神』は人を搾取する。そして、搾取された側は死に至る。確実にね。『犬神』の家には実際、他家の墓を管理していることが多いんだよ。なにせ、『犬神』に魅入られたら、誰も、もう、いなく、なってしまうから」  莫大な借金のために犬神家に嫁いだ。その意味がようやくわかった。 鳴沢家の娘を、犬神家の当主が執愛していたのも事実だろう。しかし、もっと現実的な理由があったのだ。  どんな思いで、鳴沢家の娘は十七億円を差し出したのだろう。 人の命も所詮はその程度なのか。 「…母親は、犬神家の墓には入ってないのか?」 「入ってるよ。でも、ここにも分骨してある。それが母さんの遺志だったから」  斎は哀しげに俯いて、母親らしき人の墓標をなぞった。僕は視線をその指先に落とした。 八月十五日、八重子。 そら見たことか。大嘘つきめ。どう見間違えたって二月じゃない。 「おい…命日って、明日じゃなかったのか?」 「ふふ。『万燈篭』はね、年に二回あるんだよ。盆の八月十五日と節分の日にね。母さんは『万燈篭』の日に死んだのだから、明日も命日でしょう?そう考えるのは変?」 「変じゃない。ただ、今年に限ってそう考えるのは変だ」 僕が苛立った声を上げると、斎は顔を上げて黒い瞳をこちらに向けた。僕が映っていない瞳。  僕も斎を見つめた。僕の瞳には確実に斎が映っている。雪のように白い肌が微かに桜色を帯びているので、何とか生きていることがわかる。唇は寒さのためか、艶やかさを無くし蒼く震えていた。その唇が再び開かれる。 「もう戻らないと、慈英さんが寂しがる。あの人、ここに一人で…」 「ああ…」
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