大いなる存在

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私は思った。ああ、このままでは目の前にいるこの口煩い年配者を殺してしまう。 厨房の隅には常に百八十度に設定されているフライヤーがあって、今まさにその目前に立っている彼女の後頭部を鷲掴みにして、そのまま煮え滾る油の中へ押し込めたなら。私の心はどんなにか晴れるだろう。そんな物騒なことを考えずにはいられない。彼女は確かに私を苛つかせるが、私のこの怒りは適正ではない。私は異常な怒りに囚われていた。一体いつからなのか、なぜなのか。私の内側には常にそういったなんともし難い怒りの炎が静かにしかし猛々しく存在していたのだ。 「この天ぷら、そっちに持って行ってくれないかしら?」 彼女が不思議そうに私の顔を覗き込んだ。どうやら彼女もまた私に不満がありそうで、意図的に強めたのであろう語尾に思わず反応してしまう。私は少しこの感情を落ち着けなければ。 「はい!」 残虐な空想を悟られないように、私はまるで好青年がそうするように至って素直な態度で彼女に応える。 なんとなく選んだ大学を卒業したはいいものの、みんなと同じように就職活動には熱心になれなかった。どうせすぐに着なくなるリクルートスーツを身につける意味も、面接官好きする態度をとる意味もわからない。なにより私にはずっと、ある漠然とした予感のようなものがあって、それが邪魔をしたのだと思う。それは次のようなものだ。 きっと私は近いうちに死んでしまう。しかしそのとき、私の内なる怒りが私を殺しきれないだろう。 そんな予言めいた予感は自分でも馬鹿げているとは思うのだ。しかしその予感は確信に限りなく近いもので、普段の私であればこんなにも曖昧なものをほんの少しでも信じるだなんてことはありえないのに、こればかりはどうしようもなく頭から捨てされずにいるのだ。 そしてこれを例えば社会的自立への不安として、アイデンティティクライシスの話だと言ってしまえれば簡単だけれど、どうやらそれとは異なるようで、では私自身それらがどう違うのかを説明できるのかというと、それも難しい。 それは白昼夢のような、まるで実際に体験してきたかのような、遠い昔の記憶のような、そんな形で私の中にもう長い間居座り続けているのだ。 そして日常生活を送るなかで、例えば今この瞬間にもそうなのだが、揚げたての天ぷらを乗せた二日前の古新聞をみて、ふと当たり前のように思ったりするのだ。 ああ、もう猶予はないな。 そんなことを。
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