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俄に星さんが神々しく見えてきた。
「内緒だからな!」
そんな風に笑って気安く話しかけられている自分が信じられない。
やっぱりこれは夢に違いない。
明日の朝には、自分の部屋のベッドで目覚めて、母のお味噌汁の匂いを嗅いでいるはずだ。
ボーッと星さんを見つめるわたしに、異変が起きたのはその時だった。
本来の自分の感覚とは微妙に異なるものの、それは正しく人間の三大欲求の一つ。
一度意識し始めると止めるのは難しい。
そこでわたしは青ざめた。その行為に及ぶにはズボンや下着を下ろさなくてはならない。
そして、本来わたしの体についているはずのないものにご対面しなくてはならないのだ。
どうしよう。
よりにもよって憧れのArk onに対面した途端に、トイレに行きたいだなんて、こんな悲しいことがあるだろうか。
いったいどんな顔をすればいいのか。
うだうだと考えている間にもそれは刻一刻とわたしを追い詰めてくる。
「燿子ちゃん、聞いてる?」
星さんの顔が目の前にあった。
「星さん・・・・・・」
どうしよう、今ここで頼れる人は星さんしかいない。
我慢し続けるわけにもいかない。覚悟を決めて打ち明けるんだ。
膝の上で握った拳をぶるぶると震わせるわたしに、星さんは怪訝そうな目を向ける。
「トイレに、・・・・・・行きたいです」
星さんは奥のドアを指差し、トイレの位置を教えてくれる。
それももちろん知りたかったことの一つではある。しかし、問題はそこじゃなくて。
そこじゃないんだけど、それ以上何を聞こうというのか。自分でも分からない。
我慢の限界が近付いてくる。
もじもじと動かないわたしを見ていた星さんが、ようやくわたしの心中に気付いたのか、あっ、と言ったきり目を見開いている。
恥ずかしさにいたたまれなくなったわたしは、もう半ばヤケ気味にトイレに駆け込んだ。
一瞬、トイレのドアに押し返されるような力を感じてたたらを踏む。
開いたはずのドアが目の前でバタンと締まり、その中に消えていく背中を見送る形になった。
ポツンとトイレの前に取り残されたわたしは、もうドアノブを掴むこともできない透明な存在になっていた。
どうやら、サトシさんに体から追い出されたようだ。
ほっとしたと同時に、さっきまで感じていた尿意はなくなっていた。
やがてトイレから出てきたサトシさんは、困ったような顔でわたしを見ていた。
数秒だったのか、数分だったのか、わたしはサトシさんの視線を受け止めていた。
言うべき言葉も見つからず、ただその深い夜空のような瞳に魅入られていた。
簡単にわたしを追い出すことができるのに、なぜこの人はわたしに体を貸してくれるのだろう。
サトシさんには確かにわたしが見えている。
こうやって追い出そうと思えば追い出せるのに、なぜそんなに優しい目でわたしを見ているの?
最初は少し困ったような表情で、でも今は仕方ないなって笑ってるみたいに。
たくさんの悲しみや苦しみを知って、それでも全てを受け入れてくれるような眼差しだった。
サトシさんはもしかして、わたしがこうなった理由を知っているのだろうか。ううん、こうなった理由、というよりももっと別の何かかもしれない。
具体的に何という訳でもない。例えて言うならば、人は何故生きるのかというような、答えがあってもなくても自分にはどうすることもできない、そんな疑問に対する答えを。
だからきっとわたしはこんな状況にも関わらず落ち着いていられるのかもしれない。
サトシさんがいるから。
宇宙の中にたった二人で立っていても、安心していられるような存在だから。
ほんの少しの間、体を借りていたから抱いた思いかもしれないが、その時のわたしにとってはサトシさんがとても大きな存在に感じられたのだった。
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