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わたしは目の前にある素敵な靴をじっと見ていた。
先の尖った靴は足が痛くなるからいつもは履かない。
靴はわたしにとってどちらかというと、雑貨より洋服寄りだ。
要するに「素敵だ、欲しい」と思うものと、似合うものが別なのだ。
今、わたしの視線を惹き付けている靴は、わたしの足には似合わない華奢で華やかなハイヒール。
でも、少し試着するくらい良いよね?
わたしは履いていたスニーカーを脱いで、そのハイヒールに足を入れようとして違和感を感じた。
全く入る気がしない。
足が大き過ぎる。
しかも、思わず隠したくなるほどの毛深さだった。
いくらわたしが喪女だったとしても、こんなにスネ毛伸び放題にした事はない。
これ本当にわたしの足?
「サトシ、何やってんの? それ、女物だけど.......。まさか女装癖に目覚めたとか.......?」
声がした方を向いて、知らない男性と目があった。
「えっ」
思わず口から漏れた声の低さにも驚いて、口を両手で抑えた。
「どうした? 気分悪いのか?」
心配そうに覗き込んでくるその人は、どうもわたしをサトシさんだと思っているようだ。
人違いです、そう言おうとした時、視界に入ったものが鏡に映った自分の姿だと、わたしは何故思ったのだろう。
驚きに目を見張る男性がそこにいた。
短い髪、日に焼けた肌、黒いTシャツに七分丈のカーゴパンツ。
がっしりした肩や二の腕は、アメフトとかラグビーの選手のようだ。
思わず腰が抜けて後ろに倒れそうになった。ちょうどそこにあった試着用の椅子に座り込む形になって、転ばずに済んだけれど、心臓はバクバクと暴れるし、頭が混乱して何が何か分からない。
「おい、本当に大丈夫かよ。顔色悪いぞ」
尚も心配そうに近付いてくる相手を、わたしは呆然と見上げる。
そしてはっと気が付いて通路へ走り出た。実際にはフラフラと慣れないコントローラーで操るゲームのキャラクターみたいな動きで。
ここは一階じゃない。
辺りを見回して自分が今いるのが2階のフロアだと分かった。
下を見る為に吹き抜けの方へ行こうとして足が竦む。
「おい、サトシ! どうしたんだよ?」
この体の持ち主の友人らしいその人に、わたしはすがるような目を向けた。
「さっき、誰か落ちなかった?」
「は?」
「だから、さっき3階から人が落ちなかった?」
「何変なこと言ってんの? さっきから変だぞ、おまえ」
その時、わっと巻き起こる拍手が聞こえ、さっき聞いたばかりのメロディが流れ始めた。
震える足を引きずって手すりに掴まる。
見下ろしたステージでは女の子達が何事も無かったように踊っていた。
ステージを取り囲む人々の群れは一様にステージを向いている。
わたしが落ちたであろうと思われる場所にも、横たわる人の姿は見えない。
さっきと同じ曲のサビを聴きながら、足はエスカレーターへ向かう。
3階の自分がいた場所へ行って確認しなきゃ。
自分のではない大きな足はふわふわと雲を踏むように覚束無い。
それでも走った。
もしまだ間に合うのなら。
何に?
分からない。
でも、今ならまだ間に合うような気がした。
あの瞬間に。
人混みをかき分けて、たどり着いたその場所で。
わたしの体は手すりのこちら側に倒れていた。
数歩手前で足が止まる。
あれは本当に自分だろうか。
わたしの意識は今、この名前も知らない男性の中にあって、自分を見ている。
こんなおかしな状況に、いったいどう対応したらいいのか、何かを考える余裕なんてとっくに失っている。
その時わたしの横をすり抜けて、わたしに駆け寄る母を見ていた。
なんだ、母も年相応に老けたな、なんて他人事みたいな感想が浮かんだ。
「燿ちゃん、燿ちゃん.......!」
わたしを呼ぶ母の声。
抱き起こされても、目を閉じたままぐったりしたわたしの体。
花巻 燿子。それがわたしの名前。
「お、おい、サトシ!」
後ろでこの体の持ち主の名前を呼んでいる声がする。
自分の体の傍にゆっくりとしゃがみこむ。母と向かい合う位置で、いつもより小さく見えるその姿に、
「お母さん」
.......お母さん、わたしはここにいるよ。
内心で叫んでみても、母に伝わるはずはない。
ぐったりとして目を閉じている自分の顔は、いつも鏡で見ている顔よりずっと他人のようだった。
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