chill out 〜冷たい指先と涙味のキス〜

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 誰もいない放課後の音楽室は、宵闇の色。水色のベールを纏ったブラッド・オレンジ。独りピアノを弾く少年は物憂げに目を伏せ、扉が開く音も足音も聞こえずに、没頭する。芸術家肌の凝り性で集中力が高いのだろう。 「ねえ、そこ違うよ」  不意に、仔猫のように甘えたな声がして、考え事に耽っていた(しゅう)は、漸く顔を上げた。 「こうじゃないの?」  小さな手の綺麗な指が白黒の鍵盤の上へと紋白蝶が(はね)を休めるように、そっと下りる。  彼の指より正確に譜面通りの旋律を奏で、聡明な瞳をした少女は軽妙に笑い、囁いた。 「どうして、こんな古い曲、知ってるのさ」  ぽかんと口を開いていた愁は口を結んで、起こった照れ臭さから、サッと目を逸らし、爪を噛む癖で、ギザギザした爪の先を弄り、他愛ない言葉には答えずに、はぐらかした。 「さあね。(みなみ)君こそ。どうして、ここへ?」 「いいじゃない。たまたま。仲間に入れて」  俯き、鸚鵡(オウム)返しに、質問を質問で返すと、何故だか、妙に嬉しそうにはにかんだ(あおい)は、普段よりも饒舌になり、お喋りして可愛い。 「聴いたことがあるよ。秘蔵のレコードで。家じゃたくさんね、コレクションしてるの、お祖父さまがね。確か、一昔も二昔も前に、流行した洋楽だっけ。ねっ、いい曲だよね」  おどけた顔と大人びた口調がユーモラス。人懐っこい葵の声に、思わず笑ってしまい、愁は、肩を小さく震わせては口許を押さえ、好きな()が好きな曲を知っているという、細やかな奇跡に、舞い上がった気分になった。 「へえ……秘蔵のねえ。お祖父さまがねえ」  葵のおしゃまな言葉の響きが耳に残って、つい、からかいたくなり、愁は目線を上げ、きょとんとしている藍色の瞳を見詰め返す。 「どこか、おかしい?」  すると、葵は俯き、目を逸らしてしまう。しかしスッと素早く横長の椅子へ腰掛けた。  愁のすぐ隣だ。近い。咄嗟に息を止める。漂うような爽やかな淡い匂いにくらくらし、猫のように気紛れに擦り寄っては、澄まし顔の可愛い子に、メロメロになって息を零す。 「いや……おかしくないよ、おかしくない」  心臓に悪い。薄い胸の鼓動は早鐘を打ち、たちまち、身体中が燃えそうに熱くなった。けれども、その狂熱の感触も、悪くはない。  愁は勝手に緩む頬をどうにもできなくて、だらしない顔をして、にまにま笑っていた。随分と懐いたものだと深い感慨さえ抱いて。 「そんなに笑われると……居心地が悪いよ。お祖父さまって、呼んだら変? 変かな?」  彼の(よこしま)な色の目に、鈍感な君は気付かず、どんなに不純なことを頭で考えていたって、伝わらず、何も知らない子供みたいな顔で、不貞腐れたように唇を尖らせている少女の、長い睫毛の先を目で追って、柔らかそうな、生白い頬に睫毛の影が落ちる、優美な姿を、ふと瞬きを惜しんで、じっと見詰めている。
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